田中一村 展 <不屈の情熱の軌跡>を観て感じたこと

2024年12月2日月曜日

パンダプレート プーシキン美術館 マウリッツハイス美術館 奄美 上野精養軒 真珠の耳飾りの少女 東京都美術館

t f B! P L

今年の9月19日から開催された「田中一村 展」も昨日の12月1日が最終日でした。
マスコミ等の報道をみると、連日盛況だったようです。
それもそのはず、展示会開催期間中にもNHKをはじめテレビ等でも田中一村に関する番組が急遽、複数も組まれるという反響ぶりだったのですから。
展示会の開催前から、確かに「田中一村 展」はかなり話題で注目されていた訳ですが、それ以上の主催者の意図を上回る盛況ぶりだったはずです。

わたしも熱狂ぶりがほとぼり冷めたころを狙い、開催から3週間ほどして訪れたのですが、それでも混雑ぶりは大変なものでしたから。



🔷



改めて、去る10月10日(木)、「田中一村 展」を観に上野の東京都美術館へ行ってきました。

実際に観に行ってからこの投稿までにかなりの日数がかかったのは、わたし自身の実生活がドタバタしていたことと、怠慢(?)によるものと反省しております。
そのため、どうせ遅れるのなら展示会の終了に合わせての投稿にしようと思った次第です。

東京都美術館正面入り口


10月に入っても、一向に秋らしい晴天に恵まれない昨今でしたが、当日は曇り空とは言えマズマズの天候。週間天気予報によれば次の11日が快晴とあり、混雑が予想されるのでその日を避けて10日としたのですが、思惑とは裏腹に美術館は大混雑でした。
田中一村がここまで人気だとは、どうやらわたしの考えが甘かったようです。



ところで、東京都美術館を訪れるのはかなり久しぶりで調べてみると、なんと12年ぶりでした。2012年8月にオランダの「マウリッツハイス美術館」展を観に行った時以来ということで、いつの間にかそんな月日が経ったのかと、毎度のことながら時の流れの速さに一喜一憂しているところです。


フェルメール
<真珠の耳飾りの少女>



この間、上野公園には何度も訪れていたので、そこまでご無沙汰とは思っていませんでした。
このときの一番の注目作品がフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」でした。
そのため、このときも会場は連日大混雑で、「真珠の耳飾りの少女」の部屋では入場制限が出たように記憶しています。

東京芸大へ向かう途中にある上島珈琲店

そう、この頃から美術館を訪れる人たちが俄かに増え始めたように感じました。
わたしが学生の頃(半世紀ほど前!?)は、ゴッホや印象派の展覧会でなければ、優雅に鑑賞できるほど会場は空いていたのですが、テレビ局や新聞社などが主催、協賛し始めてからは美術館の来客動員数はグンと増えたと物の本に書いてありました。こうした状況が良いのか悪いのかは人それぞれの判断ですが、このことについては以前、別の投稿「プーシキン美術館展 フランス絵画300年 個人のマナーと開催運営に問題あり」で触れているのでよろしければそちらを参照してください。


プーシキン美術館展 フランス絵画300年 個人のマナーと開催運営に問題あり


さて、今回の「田中一村 展」に話を戻します。

田中一村展パンフ 表面
まず驚いたのは、展示作品の多さです。
会場にあった作品一覧資料によると311作品とのこと。
この数を他の展示会とくらべてみると、一個人の展示会としては圧倒的な数です。

展示は大きく時系列に3章に分かれ、次のように部屋分けされていました。

  • 第1章 若き南画家「田中米邨」東京時代  74作品
  • 第2章 千葉時代「一村」誕生  130作品
  • 第3章 己の道 奄美へ  107作品


ご存知の方も多いと思いますが、天才少年、神童とまで呼ばれていた彼は、彫刻家の父親からその頃「米邨」の称号を与えられ、その後1947年に「一村」を名乗ることになります。




古今東西、、幼少から少年時代に天才、神童と騒がれると、とかく伸び悩むといった例が特に芸術の世界では数多あるようです。実際、田中一村もその多くの前例と同様に、埋もれていた時代があったようです。お恥ずかしい話ですが、筆者も田中一村の名を知るのは、一村を世に紹介したNHKの番組を視聴してからで、その程度の知識でしかありません。

さて、芸術家の生涯を調べてみると、人との繋がりが極めて重要なことがわかります。
いつの時代も、また誰にでも「とある無名の芸術家」を信じ、応援してくれる人たちがいるものです。それは家族や身内は勿論のこと、友人、パトロンなどもそうした人たちです。
田中一村の場合も生前よりは死後に於いて、そうした人たちが重要な役割を果たす、そんなケースでした。今日、田中一村の名が世に知れ、これほどに大注目されているのも、身内をはじめ上記のような支援者による地道な普及活動があったからだと思います。

残念なことに、彼の作品は生涯にわたり中央画壇で評価されることはなかったようです。
しかしながら、その中央画壇への絶望が奄美へと導き、あの「一村の画風」を確立し今日の栄光があるのですから、人生は皮肉としか言いようがありません。
これまで、人類の歴史の中でその闇に埋もれたまま、その生涯を終わった芸術家はおそらく少なくないはずです。それを思うと、一村は遅ればせながら世に見出され、多大な評価を得たのですから、まだ幸せだったと言えるのかも知れません。しかしながら、生涯自分の成功を目の当たりにできなかったことは、彼の歩んだ道のりを知れば知るほど悲運な芸術家だったことがわかります。


田中一村展パンフ 裏面


思うに、幼少に神童と呼ばれたことが、悲劇の始まりではなかったかとわたしは思います。
東京美術学校(現 東京藝術大学)の入学までは順調だったものの、その直後父親の病で已む無く退学し、本意では無い題材の画を描いて家計を支えることになります。
この出来事は東山魁夷ら東京美術学校の同期とのライバル意識や嫉妬心を生んだのかもしれません。
過去に神童と呼ばれていたが故に生じた特別な「焦り」だったとわたしは思っています。
誰にでも自惚というものがあるように、彼にも「自分はこんなものではない」といった人一倍のプライドが常にあったのでしょう。

そして、もう一つは「自分はライバルにはない生業画家の看板をもう一枚余計に背負っている」といった不条理感と不屈の思いもあったのかも知れません。
それは彼が中央画壇への出展の際に、当時の東京美術学校のライバルたちが大成して審査員の立場にいたこと、さらには作品が評価されなかったことを思えば、このときの「一村の心境や如何に」だと思わずにはいられません。

「人間、生まれながらにして平等である」なんて戯言にすぎません。
ただ「人生、すべて塞翁が馬」の諺のように、落選の屈辱感がその後の彼を強くしたとも考えられます。
わたしたちは日々を一生懸命過ごしていると、誰にでも大なり小なりこうした不条理な経験に遭遇するはずです。
例えば「自分は一生懸命頑張っているのに、誰も評価してくれない」とか「正直ものはバカを見る」といった心境になったときです。
その意味で、上記の中央画壇の出来事は田中一村が身近に感じられたエピソードではなかったかと思います。


果たして、これほどまでに注目された今回の「田中一村 展 <不屈の情熱の軌跡>」
彼が生きていたらどう思うだろうと想像してみるのも興味深いところです。
会場をあとにした時、わたしがまず思ったのがそのことでした。

人間が未完成のわたしだったら、「お前ら遅いんだよ!オレを評価するのが・・・」なんて囁いているかも知れません。

久々に、見応えのある展示会でした。
帰りに上野精養軒の名物(?)ランチ「パンダプレート」を家内と二人で食べて帰りました。
お腹も満足、心も充実の1日でした。







それにしても、上野の森は外人旅行客様でいっぱい、日本も立派な観光立国の仲間入りですネ。
帰路の電車にゆられながら、田中一村の現在の反響が一時的なブームに終わらないことを願いつつ、久しぶりの長距離歩行による程よい筋肉痛を楽しみながらの帰宅でした。

最後までお読みいただきありがとうございます。
from JDA

<追記>
この投稿を書いていて思いついたのですが、各美術館はお手数でしょうが、ホームページ上で
日毎の来客数を公表いただけたらと感じました。
昨今、幸か不幸か美術展の来客数が増加傾向にあるように感じています。芸術を愛する一員として混雑した中での鑑賞は集中できませんし、そもそも芸術鑑賞の環境ではないと感じます。
前日の最新情報が無理ならば2、3日遅れくらいでも構わないので、、各美術館は1日の入場者数が閲覧できるようにしていただければと切望いたします。
公表したから混雑が解消される訳ではないことは承知しておりますが、出かける際の目安になるかと思いますので。


このブログを検索

カテゴリー

このサイトにはプロモーションが含まれている場合があります。

マイ サイト LAULOA

HAWAII、HULA、HAWAII MUSICそしてハワイ の自然 芸術を愛する人のためのサイト
LAULOA
こちらのサイトもご覧ください。

このサイトが目指すのは・・・


コロナ禍の影響がまだまだ収まらない中、ロシアによるウクライナ侵攻やトルコ地震そして地球温暖化による気候変動など、わたしたちの周りは暗い話題ばかりです。
このサイトではできるだけ明るい話題、心温まる話題を採り上げるよう心がけます。
とは言うものの、ちょっぴり手厳しい指摘も混ぜながら

< これまでによく読まれている記事 >

フォロワー

QooQ