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こんな記事は如何ですか?

かつて「青春とはなんだ」という熱血ドラマがあった

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  近ごろ、マスコミでチョッと話題になっているのが、かつてのテレビドラマ「俺たちの旅」の50年後を描いたという映画「五十年目の俺たちの旅」だ。某週刊誌の表紙を飾っているのを書店で見かけたが、実際の評判はどうなのだろうか。映画化は今回が初めてだそうだが、個人的には意外な気がした。それと言うのも、こうしたテレビドラマの映画化は某警察系のドラマなどで何度も繰り返されてきた企画だから、「俺たちの旅」もその延長路線で既に1、2作は作られていたと勝手に想像していたからだ。いずれにしても、この種のシリーズ化はゼロから物語を作るよりは、制作側からすると作り易いだろうから、同じような企画が繰り返されるのは当然のことだろう。 ところで、ボクはこの種のシリーズは、申し訳ないが一つも見たことがない。どうしても苦手で観る気になれない。それは何故なのかと考えると、まず思いつくのがストーリーの先がある程度読めてしまうからだと思う。 もう一つは、若い頃を知る役者さんの年老いた姿を見たくないというのも大きな理由だ。 トーク番組などでその役者さんが、かつての思い出を懐かしく話している光景を見たりするのは大歓迎なのだが。 50年経ってもこの役者さんは元気に頑張っていると、敬意をこめた温かい眼差しで見ることが出来るファンの方は、ボクは偉いと思う。しかしながら、ボクはチョッとへそ曲がりなところがあって、かつての役者さんの演技をみて微笑ましく思う以上に、ボクは老骨に鞭打って頑張っている姿が、哀れで痛々しく思えてしまうのだ。これは役者さんに非があるのではなくて、あくまでもボクの主観だ。  ミュージシャンの中にも数十年ぶりの全国ツアーとか銘打って、コンサートを開催するといったニュースをネット等で見かけると、「あなたもですか?」と思ってしまう。ため息は出ても、興味は決して沸いてこない。だから、冒頭で述べたような企画作品には賛同できないのだ。 「そんな固いこと言ってないで、娯楽作品なんだから肩の力を抜いて楽しめば・・・」とよくアドバイスされるが、根っからの性分なので、今のところは改善の兆しはないと、自分自身としては思っている。 それよりも、上記の映画「五十年目の俺たちの旅」の話題で思い出したのは、ドラマ「俺たちの旅」よりもずっと前に放映されていた「青春とはなんだ」という、やはり熱血教師を主人公にした青春学園ド...

一発屋のブルース ~ 一発屋のすすめ ~

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Couleur による Pixabay からの画像 思えば、わたしは昭和を生き、平成を生き、そしていま令和という時代を生きています。 こうした3つの時代を生きてきて、とりわけ印象に残るのはテレビという一電化製品のあまりの存在感でした。テレビはわたしたちの生活の中で、これまで、そしてこれからも最も影響力がある発明品と言っても大袈裟ではないでしょう。 ですから、テレビというメディアの善悪の議論(実はこの問題も採り上げたいのですが)はさておき、昭和生まれのわたしとしては、テレビ抜きに人生を語ることはできない訳です。 わが「お茶の間」に初めて登場したテレビに胸ワクワクだった小学生のあの頃から、日々の生活の中心にテレビはあったのです。日本のこと、世界のこと、珍しいもの、新しいことなどあらゆることをわたしたちは、当時テレビから教わってきたのです。 恐らく、わたしと同世代の方は共通の認識をお持ちだと思います。 Pexels による Pixabay からの画像 大好きなアニメ番組(当時はマンガ番組と呼んでいた気がする)が放送される日などは、待ち遠しくて、その日一日がワクワクだったことを思い出します。当時の子供たちの遊び(楽しみ)と言えば、ソフトボールや虫捕りなど野外で自然と戯れる以外は、極々限られた遊びしかなかった時代です。贅沢はできない時代でしたから、テレビでマンガを見ることは当時としては最高の娯楽だった訳です。 やがて、自身の成長とともに、好みの番組はマンガからドラマ、音楽番組、バラエティーなどへと移り変わり、同時にテレビ以外の楽しみも増えてきましたが、それでも相変わらずテレビは私たちの暮らしの中心にあったのです。 そんなテレビですが、子供ながらに一つ気になることがありました。それは、連日のようにテレビに登場していた人が、いつの間にか姿を見せなくなるという現象です。 みなさんはそうした芸能人や出演者が、当時からほんのわずかですが存在していたことにお気付きだったでしょうか。 いつの間にかテレビの画面から姿を消えてしまうタレントさん。 「そう言えば、そんなタレントさんいたネ!」といった調子で時折話題にのぼる芸能人。 世にいう「一発屋」さんという人たちです。 前置きが長くなりましたが、今回はそんな「一発屋」さんについてお話したいと思います。 🔷  かつては、「一発屋」さんはお笑い系...

昭和100年と2025年から思いつくこと

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Paulina Kupis による Pixabay からの画像 今更ですが、 今年2025年は昭和の元号に置き換えると「昭和100年」に当たるとのこと。マスコミをはじめ世間では「昭和」が俄かに活気づいています。昭和生まれのわたしにとっては、この件はよく言われる「昭和は遠くなりにけり」を実感するところですが、このフレーズは実は「昭和 も 遠くなりにけり」がオリジナルのようです。「 も 」なので当然に昭和以外の別の何かがあるはずです。それが「明治」という年号だそうで、そもそもの出所は俳人の中村草田男氏が昭和6年に詠んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句で、それが元祖。後にこの句に準えて「昭和は遠くなりにけり」というわたしたちが知るフレーズが世に知られるようになったようです。 beasternchen による Pixabay からの画像 さて、雑学はこれくらいにして、昭和、平成、令和と3元号を生きてきたわたしとしては、 2025年を「昭和100年」と置き換え表現されるまでは、実は元号に関してはほとんど関心はありませんでした。誰が気付いたのか知りませんが、昭和が100年の節目であるとわかると、関心度も高まり受け止め方も大きく変わるものだと、我ながら驚いています。 わたしが昭和100年という表現を聞いてまず思ったのが「我が母親が生きていたら今年で100歳になるんだ!」という感慨でした。こうした思いは西暦では湧き上がってこなかったと思います。昭和という元号だからこそ導き出されたセピア色の思いだったとわたしは感じています。 2025年が昭和だったら100年という事実を知って以来、わたしの中で昭和の時代が俄に懐かしく、愛おしく思えるようになりました。西暦では感じとれない微妙なニュアンスが昭和という響きにはあるのだと感心しました。 改めて言葉の偉大さと影響力を痛感したところです。 今回はそんな「暦」に関するお話しを少々。 🔷 さて、わたしは以前から日本の元号というものに対し、些か懐疑的だったところがありました。なぜなら、次の元号が何であろうと自分には関係のないことだし、そもそも煩わしささえ元号に対し感じていたからです。 この投稿がどういった人に読んでいただいているのかは、わたしには分かりませんが、 現在、社会人現役の方も、わたし同様に現役を退いた方も、少なからず経験のあること...

やっぱり、カラヤンはいい!

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  NoName_13 による Pixabay からの画像 とにかく、それはベルリンのイエス・キリスト教会内に響き渡り、まるで天まで届くような圧倒的な演奏だった。勿論、わたしは教会内に実際にいた訳ではない。 しかしながら、その演奏はわたし自身が恰も教会内にいるかのような圧倒的な迫力と緊張感を、わたしに感じさせてくれたのだ。 その演奏とはカラヤン、ベルリン・フィルのブルックナー交響曲第9番だった。それもイエス・キリスト教会で録音されたレコード盤でのものだ。この第9番はブルックナーの交響曲の中で私が最も好きな交響曲だから、何人かの指揮者のCDをもっているし、何度も何度も聴いてきた曲だが、このカラヤンのそれは一味も二味も別格だった。否、そのときは別格に感じられたのだ。 カラヤン、ベルリン・フィルのブルックナー交響曲第9番 1966年3月  イエス・キリスト教会にて録音 実はつい最近、CDプレイヤーとアンプが相次いで故障したために、取り敢えず別機器の接続を試みたが、アンプはあるがCDプレイヤーの方がない。やむなくレコードプレーヤーを接続し試聴となったのだが、これが思わぬ感動に導いてくれたのだ。 その感動のひとつがレコード盤の底力というか素晴らしさを再発見したことだった。 しかし、それ以上に感動したのが、このところその名前も話題もご無沙汰のカラヤン、ベルリン・フィルの唯一無二とも言える重厚な演奏だった。接続テストの意味で掛けたのだが、その再生音の素晴らしさと緊張感ある演奏に全曲を聴いてしまった。私がもっている廉価なオーディオ機器でも優れた演奏は聴き分けることができるのだと思った。 そのとき思わず出たのが「やっぱり、カラヤンはいい!」のフレーズだった。 今回は、そんなヘルベルト・フォン・カラヤンについて、多少の独断と偏見が入るが、この際お許しいただき、これまでの私説をお話しよう。 📌蛇足ながら、上記でふれた「レコード盤の底力と素晴らしさ再発見」について関心のある方は、下記の筆者別ブログ投稿を参照いただきたい。 「やっぱり、レコードはいい!」 🔷 ところで、このカラヤンのブルックナー交響曲第9番を聴くのも、尚且つレコード盤で聴くのも数十年ぶりのことだった。確か、このレコードを買ったのは高校生の時だったと思う。学生の小遣いで2,000円の出費は当時はたいそうな痛手だった...

エイプリルフールって何?

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昨今は、死語と化したかと思えるほどに聞かなくなってしまった「エイプリルフール」という風習。いまの小学生は「エイプリルフール」を知っているのかと、4月1日の朝、何気に疑問に思いエイプリルフールについて書こうと思い立ったのだが、諸々の事情から出し損ねてほとんど忘れかけていた。 そんなやさき、某お弁当チェーンのエイプリルフール絡みの新聞記事を読み、遅ればせの投稿にいたった次第である。 その記事によれば、昨今のお米の品薄と価格高騰の煽りで 「本日よりライスを販売停止します。」 という内容の投稿が当該チェーン店の公式アカウントでSNS上に載ったという内容だった。ここまでなら特段のニュースにはならなかったのだろうが、その後の店のコメント、対応が問題になったのだ。 それは「本日よりライスを販売停止します。」の投稿自体がエイプリルフールの嘘だったというのである。投稿にはハッシュタグ「#エイプリルフール」が記載されていたとはいえ、世の中が「お米」に対して殊のほか神経質になっている最中である。あまりにタイミングが悪いというか、当該チェーン店にしてみれば、4月1日が絶好のタイミングと判断したのだろうが、エイプリルフールネタとしては最悪だったようだ。 この記事を読み始めたときは、よくあるフェイクかと早合点したのだが、全体を読んでみて何とも軽率な対応に呆れた。安易な状況判断が、多くの人たちの神経を逆撫でする結果となり、企業イメージも著しくマイナスになったはずだ。 当該の新聞記事を読み終えた後、自らのこととして受け止め、襟を正す思いがした。 🔷 さて、本来のエイプリルフールに話を戻そう。 冒頭でも触れたように、エイプリルフールという用語自体、わたしたちの意識から完全に忘れ去られたように、わたし個人は考えているが、果たして世間一般としてはどうなのだろうか。 marian anbu juwan による Pixabay からの画像 エイプリルフールという響き自体が、今年話題の「昭和」の香りがプンプンしているように思う。昭和30年代、日本は一般庶民の生活はまだまだ貧しくて、大人の娯楽も子供の遊びもそれほどたくさんあった訳ではないから、目新しいことがあるとボクらはすぐに飛びついた時代である。エイプリルフールもその一つだった。 古くは「ダッコちゃん人形」「フラフープ」「ホッピング」などの遊具や「ナポリタ...

ときには技術の進歩に抗うことも ~オーディオの歴史から考える~

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今更わたしが言うまでもないことだが、昨今の技術革新にはほんとうに驚かされる。 特にAIの技術はあらゆる分野において、わずか数年で現代社会にとって必要不可欠な存在となっている。 一昔前、パソコン(コンピュータ)がわたしたちの生活環境に入り込んできたときも、それなりの衝撃はあった。しかし、AIにおいてはパソコンの域をはるかに超えたスピードとボリュームで、わたしたちの生活全般を大きく変えようとしている。 確かに思いかえせば、技術の進歩によって、わたしたちの生活は豊かになり便利になり、そして快適になった。これまでの時代は、そうした流れで進んできたのだ。 しかしながら、そうしたこれまでの流れをわたしたちは疑いなく無条件に、喜んでよいのだろうか。最近は特に疑問に思うことがしばしばである。 オール電化の家に住み、無人の電車に乗って通勤し、休日は自動運転補助付きのマイカーに乗ってドライブ。まるで先日、久々に観たビデオ「バック・トゥー・ザ・フューチャー Part 2」の世界そのものではないか。 近い将来そんな生活がわたしたちの日常生活になるとしたら。 否、もうすでにその一部は現実化しているではないか。 改めて、こうした「進歩」もしくは「発展」は、わたしたち人間にとって本当に喜ぶべきことなのだろうかと疑ってしまう。と言うよりも、むしろ危機感すら覚える。 「腹八分目に医者いらず」という「たとえ」が、その昔よく使われたが、物事は程々に止めるのがよくて、行き過ぎは禁物だという内容だが、わたしなどは古い人間なのでついつい賛同してしまう。 そもそも、わたしたちが築き上げてきた「進歩」とはいったい何だろうか。 そして、わたしたちは何のために努力して来たのだろう。 ある意味、人類の歴史が「進歩」の歴史だったことは確かだが、その当初の目標が仮に「人間を楽にさせる」ことだとしたら、すでにその目標は充分にクリアしているではないか。そして、いまは「人間を堕落させる」段階まで来てしまったのではないかと思ってしまう。 2025年3月28日 小さな梅の実が・・・ もうそろそろ、前に進むことばかり考えず、現状維持という選択肢もアリではないかと思うのだが、どうだろう。 今回はそんなことを考えてみたい。 🔷 わたしは音楽を聴くことが大好きなので、オーディオやデジタルの分野に於いて「進歩=新しくなること」を常々疑問に感...

バキュームカーがやって来た

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わたしは断片的ですが、3歳ぐらいの出来事をいくつか覚えています。 身近な人に尋ねてみると、それはかなり凄いことらしいのですが、そんな記憶の統計はどこにもないでしょうから、自分としては何とも言えません。 Xuan Duong による Pixabay からの画像 しかしながら、3歳よりは遥かに後の出来事と思われる、ある事に関しての記憶がまったく無いことに最近気が付いたのです。そのある事とは極めてバカらしい事柄なのですが、「自分の実家のトイレはいつ頃水洗トイレになったのか?」という疑問です。先日トイレに入っていた時に、そんなどうでもよい疑問が何気なく頭をよぎったのです。 そんな訳で、今回は昭和の香りが漂うチョッとテレ臭いお話です。 🔷 調べてみると、日本では意外にはやく、関東大震災の後に下水道、浄化槽の整備が本格的に進められ、それに並行して水洗トイレは出始めたそうです。 とは言え、一般の家庭に普及するのはまだまだ先のことだったようですが。 ご承知の通り1960年代に入ると、日本は高度経済成長の時代に入り、その豊かさの表れのひとつが水洗トイレだったのかも知れません。そして日本住宅公団の団地建設を機に、一般家庭にも徐々に普及し始めたそうです。 そんな概要がわかってくると、トイレに関する自分の記憶も少しづつ鮮明になってきました。 そう!思い起こせば、わが両親が待望のマイホームを横浜の本牧近隣に建てたのが、 1950年代後半の頃で、そのときのトイレは確かに、世に言う「ぼっとんトイレ」だったのを覚えています。それから数年して水洗トイレに改装されたはずです。まさに昭和で言えば、30年代の中期から後期にかけてのことだったと思います。 ですから、当時のわが家にとってはトイレ改装は画期的な出来事だったと思うのですが、わたしはその当時の状況をまったく思い出せなかったと言うか、そんなことさえ最近まで考えたことが無かったのです。 テレビがわか家にやってきたときは、学校の授業も上の空でワクワクだった自分を昨日の事のように覚えているのに、水洗トイレの件はインパクトゼロだった訳です。 そもそも、子供はテレビや自転車など遊びに関係することには夢中でも、水洗トイレのことなんて、どうでもよかったのでしょう。 トイレなんてできるだけ居たくない場所ですから、記憶の圏外なのは当然かも知れません。 🔷 さて、記...