2020年3月31日火曜日

あの頃、僕のCinema Paradiso:シンドラーのリスト

シンドラーのリスト

「優れた映画音楽に駄作映画はない」


この映画は1993年に製作された作品です。
監督はなんと映画「ジェラシックパーク」などで有名なあのスティーヴン・スピルバーグ
ホロコーストを背景にした、実話に基づく作品です。

見どころはドイツ人実業家オスカー・シンドラーが当時のナチスドイツを相手に、
如何にして1000人以上のユダヤ人を救ったかということ。
危険を冒してまで何故にそんな大それたことを行なったのか、その目的は何だったのか。

当時のナチスドイツといえば、わたしがここで申し上げるまでもないことなので割愛しますが、全体主義体制下で権力に抵抗し、どのようにしてユダヤ人救済に結びつけたのかが、まずわたしとしては信じられませんでした。
とりわけ関心があったのが、実業家オスカー・シンドラーという人間が如何なる人物だったのかということです。
映画を観るまでのわたしの勝手な想像は膨らむばかりでしたが、
単なる美談、英雄談ではないかというわたしの先入観は映画の始まりと共に見事に打ち砕かれます。

公開から30年近く経っているので、ネタバレのご指摘は時効ということで、彼の人となりについて多少お話ししておきましょう。
ドイツ人の彼は実業家としての才能に恵まれていて、お金儲けには人一倍貪欲だったようです。いわゆる清廉潔白とは程遠い人物で、人の扱いについても長けていたのです。

当初、彼は率先してユダヤ人を自分の工場に雇い入れます。それは彼らを救うという目的ではなく、彼らユダヤ人なら低賃金で雇えるという損得感情が働いていたからで、自分にとって有利だったからです。
そんな彼を博愛(人を救けるという意味での)の行動に導いたものが何だったのか。
また、ナチス党の党員でありながら、党を裏切り何故あのような行動がとれたのか?
それは、以外にも彼がナチス党員だったからこそ出来たのですが、
その辺りのことはブルーレイやDVDで実際に確認してみてください。
作品のテーマがあまりに重たいため、敬遠されがちなカテゴリーですが、観る価値は充分あると自信をもって言える映画です。

そんなわたしですが、実のところこの作品を観たのは僅か数年前のことでした。
それは公開から20年以上が経っていたことになります。
理由は自分でもハッキリしません。
日々の雑用にかまけて観るタイミングを逸してしまったというのが本音でしょうか(気軽に楽しめる映画や連続ドラマを優先したためか)。
或いは、3時間超という作品の長さもあったのかもしれませんが、
DVDを買ってあるからいつでも観ることが出来ると言う、変な安心感があったのかもしれません。
結果的には、もっと早く観ておけばよかったと後悔しています。

ところで、シンドラー役のリーアム・ニーソンは映画の中で、戦況の変化とともに刻々と変わっていく自身の環境変化に対し、順応していく主人公を見事に演じています。
この作品の後、彼は映画俳優として大きくブレークしていきます。

シンドラー役のリーアム・ニーソン

そんなリーアム・ニーソンとは対照的にシブい演技で存在感を示したのが、シンドラーの工場で経営を任された会計士イザックを演じたベン・キングスレーです。
因みに、彼はこの作品の前年1982年に「ガンジー」でアカデミー主演男優賞を受賞しています。

イザックを演じたベン・キングスレー


このように、話題性の多かった「シンドラーのリスト」ですが、わたしがこの映画で一番凄いと感じたのは、それまで「ジェラシックパーク」や「インディージョーンズ」など娯楽性の強い作品でヒット作を連発していたスピルバーグ監督が、娯楽路線からシリアス路線に切り替えて、アカデミー狙いで、狙い通りアカデミー作品賞を受賞したことです。
賞には事欠かないスピルバーグでもアカデミー作品賞だけはどうしても受賞したかった賞だったんですね。

そして、最後に忘れてはならないのが、作品全体に流れるジョン・ウィリアムスの音楽です。なかでもメインテーマは、この映画を象徴するかのような何ともやるせない楽曲になっています。
その哀愁を帯びた旋律は、深い悲しみとともに涙を誘います。
実は、わたしによってながいこと封印(?)されていたこの映画を観る気にさせたのは、このメインテーマの存在だったのです。
「優れた映画音楽に駄作映画はない」「優れた映画はその映画音楽も素晴らしい」がわたしの心情でしたから。

ジョン・ウィリアムスは言うまでもなく、映画音楽の第一人者。
この作品でもアカデミー作曲賞を受賞しました。
さらに、このメインテーマのヴァイオリン・ソロは、クラシック界の大御所「イツァック・パールマン」です。
このように、映画「シンドラーのリスト」は一流の監督、一流のキャスト、一流のスタッフ陣と最強メンバーによる作品だった訳で、アカデミー賞の多くの部門で受賞できたのは当然と言えば当然のことだった訳です。
それにしても、なぜ公開当時に観ておかなかったのかということが悔やまれます。
観ていたら人生変わっていたかも?
チョッとオーバーか、でも人生観は変わっていたでしょう。
大切にしたい映画です。

なお、「シンドラーのリスト」メインテーマについては、まだまだ話したいことがあります。これについては別シリーズ「音楽聴きくらべ」で取り上げたいと思っています。
2020.03.30 JDA

2020年3月5日木曜日

音楽について感じたこと<続編> 音楽の力について一言 


音楽の力って何だろう?
最近、テレビで元YMOメンバーの坂本龍一氏が、東日本大震災の被災地慰問等でこの間多くの人たちが口にしていた「音楽の力」について、嫌う発言をしていたけれど、坂本氏らしいコメントだと思った。
そのインタビューのなかで「音楽が人々を救う」的な意識はおこがましいというようなことを言っていたように僕自身は受け取った。
実際のところ検証した訳ではないのでハッキリしたことは言えないが、音楽によって救われたとまでは言えないまでも、勇気づけられた人たちは被災地ではたくさんいたのではないかと思う。


坂本氏の発言は、当然そういったことを踏まえた上でのミュージシャンとしての謙った言葉だと解釈したい。
当然に実績ある演奏家の彼だからこそ発言できた許されるコメントだったのだと思う。

当時、ボランティア的発想で積極的に現地を訪問した芸能人やミュージシャンがいた中で売名行為と囁かれた人たちがいたことも確かだ。そうした混乱のなかでの彼らの行動は人々に明るい光を与えてくれたことは言うまでもないが、その一方で「音楽の力」のフレーズが異様なほどに繰り返されていたのも気になったところでとても残念だ。

最近の坂本氏の発言の背景にあるのは、ミュージシャンが異口同音に発した「音楽の力」の発言が時として「上から目線」的なニュアンスに受け取られかねないことに対する警鐘だったのだと思う。


「われわれはやってあげてるのだ」という微妙な驕りの心理が見え隠れしているのを坂本氏は察知し、それを嫌ったのかもしれない。




余談だが、昨今の日本のスポーツ界で多くの選手が口にする「試合を楽しみたい」というフレーズにも、上の「音楽の力」同様に僕としては違和感を感じてしまう。
元々は外国の選手がインタビューの際に口にしたフレーズだったのだろうが、本番に弱い日本の選手にとっては絶好の「おまじない」的救いの言葉だったのだろう。
当然のこととして、みな飛びついたのだ。
そこには「緊張せずリラックスして」といった意味合いが込められているのだろうが、「言うは易く行うは難し」で、実践されなければそれこそカッコ悪い。
これもまた、音楽界同様にスポーツ界に蔓延しているトレンド用語で、誰もが使ってしまうと滑稽としか思えない。

話を本題に戻すことにしよう。
確かに、これまで多くのミュージシャンが一応に口にした「音楽の力」というフレーズに坂本氏が違和感を覚えたのも頷ける。
要は、自分なりのユニークな言葉では表現できず、今そこにある流行語でことを済ませようとして自分なりの個性を出そうとしない日本人ばかりなのが問題なのだ。
ここ最近では政治家の「~~ファースト」や「ワンチームになって・・・」然りだ。 2020.03.05 JDA

2020年3月4日水曜日

音楽について感じたこと ~独断と偏見的考察~


このところ、懐かしのメロディーにハマっている。
と言っても演歌ではない。
懐かしのスクリーンミュージックである。
「黒いオルフェ」、「いそしぎ」、「ムーンリバー」、「太陽がいっぱい」など挙げればキリがないが、当時リアルタイムで劇場で観た映画ではないが、この時代の映画音楽のインパクトが強い。
それは何故かといえば、とても単純なことで、どれもゆったりとしていてメロディーが綺麗だからだ。所謂癒し系で僕たちを快適にしてくれるからだと思う。

こうした曲は映画ファンのみならず、多くの人たちに知られ、映画挿入曲の域を脱して、所謂スタンダードナンバーとして世代を超えて音楽ファンに愛されてきた。


そんな懐かしのスクリーンミュージックを再び聴いてみようと思ったキッカケは、最近耳にする曲の無味乾燥さを痛感するからだ。
まず残念なのは、そのメロディーの貧弱なこと。
何とも掴みどころのない平凡な旋律で、これと言った特徴もなく、どれも同じように聞こえてしまうのは僕だけだろうか。

そして何よりも気になるのが、曲の流れが唐突で不自然なこと。
高い音、低い音の移り変わりが極端で、曲の展開に無理を感じてしまうことだ。
楽器演奏ならまだしも、ヴォーカルの入った曲となると、ミュージシャンの声量(歌唱力)にもよるのだろうが、高音域などは声がかすれて聴いているこちらの方が息苦しく感じてしまう。これでは僕たちはリラックスできない。

チョッと良い曲だなと思ってみても、以前どこかで聞いたメロディーに似ていたりして、忽ち興ざめしてしまうことなどもある。
錆びついた表現になってしまうけど、鳥肌が立つような、胸が熱くなったり心躍るようなときめきを感じることはその手の曲からは決してない。


その昔、ビートルズの「ガール」や、サンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」を初めて聴いたときの衝撃はいまも忘れない。理屈抜きに感動し憧れたものだった。
自分もこうした曲を作ってみたいとか、演奏してみたいとかの憧れ。
たとえそれが実現できなかったとしても、こうした感動を体感し、辛いこと苦しいことを僕たちは音楽とともに乗り越えてきた経験をもっている。
そして、そうした思いを僕たちに感じさせてくれたのが、当時の個性溢れるメロディーと楽曲の素晴らしさだったのだと思う。(注1)


「おいおい、バカを言っちゃ行けないよ。今の時代、音楽はメロディーじゃなくて、リズムだよ。」なんて声がどこからか聞こえてきそうだが・・・

それでは、僕たちが心の底から「良い曲だな~」と感じる曲の特徴あるいは要素とはいったいどこにあるのだろう。
メロディー優先か、リズム優先かといった観点の問題もあるので、なかなか議論しずらい部分もある。
楽曲の構造が云々といった専門的な理屈(音楽理論)は僕には分からないけど、良い曲か悪い曲かの判断の基準は至って単純だと思う。
それは、その曲を再び聴きたいかどうかだと思う。


一度聞いたら忘れられない個性的な旋律。それは美しかったりユーモラスだったり哀愁を帯びていたりと様々だけど、心に残る曲はみんな最初から何か惹きつけるものがあるみたいだ。そして理屈抜きにもう一度聴いてみたいと思うのだ。

「あの頃、雨後の筍のように次から次と世に出たヒット曲(ヒット曲が心に残る優れた曲とは必ずしも言えないけれど)は、果たしてあの時代で出尽くしてしまったのではないか。」と考えることがある。

「音楽は無限だと言うけれど、曲って音の順列組み合わせみたいなものだから、ある意味限りがある。」と、むかし音楽関係の誰かがラジオか何かで言っていたけど、その辺の記憶に自信はない。ただ、話の中身だけが妙に印象に残っていた。
一定の長さであって聞くに耐えられる曲という条件をつけたら、そうした考え方も成り立つのかもしれません。
そうなると、やはりスタンダードナンバーになり得るような優れた楽曲は出尽くしてしまったと考えるのが妥当か。あるいはこの先名曲と呼べる曲が仮に生まれたとしたら、それは極々珍しいミラクル級の大ニュースに値するのかもしれない。

そんな風に考えると、作曲とは人が作り出すものではなくて、僕たちの知らない場所にすでに曲は存在していて、それを未知の領域から掘り出す作業、言い換えれば「発見すること」に近い行為なのかもしれないと思ったりもしてくる。

そう言えば、遥かむかし僕がクラシック音楽に目覚めたころ、ビゼーの「アルルの女」、サンサーンスの「白鳥」、シューベルトの「アヴェ・マリア」そしてチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」等々を聴き、次から次と名曲に出会った。それは洞窟から宝箱を見つけた(そんなの見つけた経験は一度もないけど)のと同じような喜びだったのかもしれない。
そのクラシックという宝箱には様々な国の名曲という宝石が入っていたが、その箱はあまりに大きくて、いまだに僕は未知なる楽曲を探索し続けている。

*注1「音楽は僕たちに何をもたらしてくれるのか?とか音楽の影響力」といった話題は、メディアのなかで度々議論になることですが、これについては次回、続編「音楽の力」として取り上げたいと思っています。
2020.03.04 JDA

★音楽について感じたこと<続編> 音楽の力について一言https://jdnext.blogspot.com/2020/03/blog-post_5.html