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名曲紹介、こんな名曲がこのアルバムに・・・ :アール・クルー 「Theme for a Rainy Day」

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ミュージシャン:Earl Klugh ( アール・クルー ) アルバムタイトル:Midnight in San Juan  『ミッドナイト・イン・サン・フアン』 曲名:Theme for a Rainy Day(アルバム7曲目) リリース年:1991年 アール・クルー: 『ミッドナイト・イン・サン・ファン』 1 Midnight In San Juan 2 Every Moment With You 3 Kissin' On The Beach 4 She Never Said Why 5 Mobimientos Del Alma (Rhythms Of    The Soul) 6 Jamaican Winds 7 Theme For A Rainy Day 8 Take You There ◇ かつて、フュージョンというジャンルの音楽が、一世風靡したことをご存知だろうか。 1980年代後半から90年代にかけて、ジャズからフュージョンへ傾倒していったミュージシャンや、フュージョンからスタートしたミュージシャンなどを含めると、あの当時ミュージックシーン全体に占めるフュージョンの勢力図はかなりの割合だったはずだ。 クロスオーバーと呼ばれたこともあったが、フュージョンとクロスオーバーのハッキリした違いは、正直今でも分からない。 認識していたのは、ジャズやロックやR&Bなどの複数ジャンルの融合ということだったが、そうした理屈よりも当時は、直にそのリズムやサウンドを聴いて、「これがフュージョン音楽か!?」と自分なりに感じて、このジャンルのファンになったものだ。これは、ブームに流されてとか、誰かの影響とかではなくて、自らの体験に基づく体感的判断で、このジャンルに惹かれていったのだと思う。少なくとも私は、自分で納得しなければ、ファンになることはないから。 そんな訳で、今回はあの当時、巨大化したフュージョン界にあって、独自の世界を展開し活躍したギタリスト「アール・クルー」のおはなしです。 ◇ アール・クルーといえば、まず思い出すのがアルバム「フィンガーペインティングス」(図1)。 このアルバムには「最高!」「傑作」「決定版」といった絶賛の形容が、躊躇うことなく与えられてきた彼の代表アルバムだ。彼の3枚目のスタジオ録音アルバムになるが...

懐かしのビリーヴォーン楽団「星を探して(Look for a star)」を聴く

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 ビリーヴォーン楽団 「Look for a star」 放題「星を探して」 映画『サーカス・オブ・ホラーズ』(Circus of Horrors) のテーマ曲 最近はまったくと言ってよいほど、「ビリーヴォーン楽団」の名前を聞かなくなりました。 それもその筈、この楽団が活躍していたのは、1950年代から70年代にかけてのこと、もう半世紀も前の話だからです。とは言っても、かつては人々の「忘れる」という間隔は、今よりはズッと広かったので、一つの話題(出来事など)が長期間にわたって新鮮で、ヒット曲も映画も寿命が長く、人々の間で語り継がれていたように記憶します。 「ビリーヴォーン楽団」のことも、あの頃は毎日の生活のなかで、度々話題になっていたはずです。それに対して、今は目まぐるしく時が流れ物事が次から次と展開し、印象が稀薄なまま記憶として留まりません。数年前のことは、もう遠い昔のような感覚です。当の私もある時期までは完全に「ビリーヴォーン楽団」を忘れていたのですから、偉そうなことは言えませんが。 当時は、今のようにSNSのような情報拡散手段がなかったので、一つの情報が人を介してゆっくりと伝わっていったのでしょう。ひとつの話題がとても長く人々の周りに漂っていた時代でした。果たしてどちらが良いのかは判断しづらいところです。 そんな訳で、今回お話するのは、時代の流れ方も今とくらべると、ズッと緩やかに感じられた時代に活躍したビリーヴォーン楽団から発想される諸々の話です。 ◇ さて、ビリーヴォーン楽団と言えば、当時は軽音楽を演奏する楽団でしたが、その後こうした軽音楽全般はイージーリスニングと呼ばれるようになりました。「浪路はるかに」や「峠の幌馬車」などのヒット曲がこの楽団にはありますが、今回採り上げる「星を探して(Look for a star)」も1960年のビリーヴォーン楽団のヒット曲です。ヒットした頃は未だイージーリスニングという用語さえない時代です。 わたしがこの曲「星を探して」を知ったのは中学、高校の頃になります。通っていた学校の昼休みに校内放送のテーマソングとして、毎日流れていたメロディーでした。 冒頭にも揚げたように、この曲は『サーカス・オブ・ホラーズ』という映画のテーマ曲だったそうですが、この投稿を書くまではまったく知りませんでした。 スクリーンミュージックと...

音楽における「枯れた味わい」とは

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 幼少の頃「オーケストラの指揮者になりたい」という浅はかで無謀な夢を、抱いていたことがありました。当然、夢はかなわず、音楽とは無関係の道を進んだ訳ですが、それでも音楽(色々なジャンル)を愛する、楽しむという心は今日まで忘れたことはありません。 最近、年齢を重ねることで、そんな音楽に対する考え方が、自分の中で少しずつ変わってきた気がします。更に、私が生まれる以前から愛されてきた、スタンダード・ナンバーという沢山の素晴らしい曲が、少なくともわが国では忘れられようとしていることが残念でなりません。 そんな訳で、今回は音楽について思いついたことを書いてみました。 現代音楽シーンへの疎外感と世代間の遊離 私は、最近の若い世代に流行の音楽や、活躍しているミュージシャン、グループの名前さえ分かりませ。50代の頃までは、世の中のミュージックシーンに何とか着いて行ける自信があったのですが、現在は70代。「完全に取り残された」という強い疎外感は否めません。 かつては音楽全般で、親と子の世代で共有できる部分(音楽のジャンル、ミュージシャンなど)もありましたが、現在はその共有部分が失われ、世代間の遊離が完全に進んでいるように感じています。 この背景には、インターネット社会における流行の急激な変化や、エンターテインメントの裾野拡大、そしてアーティスト名、グループ名の複雑さなどがあって、それらが大きな壁となっていると考えられます。こうした「ネガティブ・スパイラル」は私たち年配者にとっては厄介です。 情報の氾濫によって選択肢が無限に拡がった現代は、一見自由で恵まれた状況のように見えますが、若い世代のリスナーは過去の音楽への関心が薄いため、実は「選択肢が狭まった」という見方もあって、結果として若い世代の音楽嗜好も、ラップ系など一部のジャンルに偏っているように感じます。ところが、聞いた話では今の10代、20代の人たちは音楽のジャンルはボーダーレスとのことで、私の見方は非常にアマかったようです。 「スタンダード」という人類の遺産 私は、かねてから音楽における「スタンダード・ナンバー」の重要性を感じていました。「スタンダード・ナンバー」とは、はじめからスタンダードだった訳ではありません。長い年月を経て多くの人々に歌い継がれ、語り継がれて、結果として認められた名曲のことです。 私は「ホワイト・クリ...

本の紹介:「ベルリン・フィル 栄光と苦闘の150年史」  芝崎裕典著 中公新書

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◆ 世界最高峰のオーケストラ、その「真実」への入り口 ◆ クラシック音楽に詳しくない人であっても、その名を一度は耳にしたことがあるであろう「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」。世界最高峰のオーケストラとして君臨し続けるこの楽団について、これまで数多くの書籍が編まれてきました。しかし、今回取り上げる新書『ベルリン・フィル 栄光と苦闘の150年史』は、それら従来の書籍とは一線を画す、極めてユニークな視点を持った一冊です。 本書の最大の特徴は、ベルリン・フィルを単に「素晴らしい演奏を聴かせる音楽団体」として捉えるのではなく、ドイツという国家、そしてベルリンという都市が歩んできた激動の歴史の中に位置づけている点にあります。 音楽関係史という学問は「歴史上、音楽が社会や文化とどのように関わってきたかを学ぶもの」と認識していました。その視点に立てば、世界で最も音楽を愛すると称されるドイツの人々とベルリン・フィルが、歴史の荒波の中でいかにして存続し、いかにして世界最高峰の地位を維持し続けてきたのか、というプロセスこそが本書の最大の読みどころとなるのです。 もし、あなたが「ベルリン・フィルと他のオーケストラの音色の違いは何か」あるいは「その音色の違いはどこから来るのか」を知りたいのであれば、本書はその期待には応えないかもしれません。そのような純粋に音楽的な興味を満たすためには、実際にコンサート会場に足を運び、その音を直接浴びるべきだと考えます。しかし、そこには現代のクラシック音楽ファンが直面する、厳しくも現実的な「壁」が立ちはだかっています。 ◆ 高嶺の花としてのベルリン・フィルと、デジタルという選択 ◆ ベルリン・フィルの演奏を生で聴くことは、音楽評論家などの専門家でない限り、金銭的にも機会的にも容易なことではありません。特に日本のファンにとって、彼らの来日を待つことが第一関門になります。。私自身の経験として、1970年代の「帝王」カラヤンとベルリン・フィルの来日公演の際のエピソードをご紹介しておきましょう。 当時の記録によれば、S席のチケット代金は一万数千円でした。現代の感覚ではそれほど高額に感じられないかもしれませんが、当時の大卒初任給が5~6万円であったことを考えれば、その異常振りが理解できます。さらに、一人一応募の抽選制でありながら、入手は「夢のまた夢」と言われるほどの...

かつて「青春とはなんだ」という熱血ドラマがあった

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  近ごろ、マスコミでチョッと話題になっているのが、かつてのテレビドラマ「俺たちの旅」の50年後を描いたという映画「五十年目の俺たちの旅」だ。某週刊誌の表紙を飾っているのを書店で見かけたが、実際の評判はどうなのだろうか。映画化は今回が初めてだそうだが、個人的には意外な気がした。それと言うのも、こうしたテレビドラマの映画化は某警察系のドラマなどで何度も繰り返されてきた企画だから、「俺たちの旅」もその延長路線で既に1、2作は作られていたと勝手に想像していたからだ。いずれにしても、この種のシリーズ化はゼロから物語を作るよりは、制作側からすると作り易いだろうから、同じような企画が繰り返されるのは当然のことだろう。 ところで、ボクはこの種のシリーズは、申し訳ないが一つも見たことがない。どうしても苦手で観る気になれない。それは何故なのかと考えると、まず思いつくのがストーリーの先がある程度読めてしまうからだと思う。 もう一つは、若い頃を知る役者さんの年老いた姿を見たくないというのも大きな理由だ。 トーク番組などでその役者さんが、かつての思い出を懐かしく話している光景を見たりするのは大歓迎なのだが。 50年経ってもこの役者さんは元気に頑張っていると、敬意をこめた温かい眼差しで見ることが出来るファンの方は、ボクは偉いと思う。しかしながら、ボクはチョッとへそ曲がりなところがあって、かつての役者さんの演技をみて微笑ましく思う以上に、ボクは老骨に鞭打って頑張っている姿が、哀れで痛々しく思えてしまうのだ。これは役者さんに非があるのではなくて、あくまでもボクの主観だ。  ミュージシャンの中にも数十年ぶりの全国ツアーとか銘打って、コンサートを開催するといったニュースをネット等で見かけると、「あなたもですか?」と思ってしまう。ため息は出ても、興味は決して沸いてこない。だから、冒頭で述べたような企画作品には賛同できないのだ。 「そんな固いこと言ってないで、娯楽作品なんだから肩の力を抜いて楽しめば・・・」とよくアドバイスされるが、根っからの性分なので、今のところは改善の兆しはないと、自分自身としては思っている。 それよりも、上記の映画「五十年目の俺たちの旅」の話題で思い出したのは、ドラマ「俺たちの旅」よりもずっと前に放映されていた「青春とはなんだ」という、やはり熱血教師を主人公にした青春学園ド...

一発屋のブルース ~ 一発屋のすすめ ~

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Couleur による Pixabay からの画像 思えば、わたしは昭和を生き、平成を生き、そしていま令和という時代を生きています。 こうした3つの時代を生きてきて、とりわけ印象に残るのはテレビという一電化製品のあまりの存在感でした。テレビはわたしたちの生活の中で、これまで、そしてこれからも最も影響力がある発明品と言っても大袈裟ではないでしょう。 ですから、テレビというメディアの善悪の議論(実はこの問題も採り上げたいのですが)はさておき、昭和生まれのわたしとしては、テレビ抜きに人生を語ることはできない訳です。 わが「お茶の間」に初めて登場したテレビに胸ワクワクだった小学生のあの頃から、日々の生活の中心にテレビはあったのです。日本のこと、世界のこと、珍しいもの、新しいことなどあらゆることをわたしたちは、当時テレビから教わってきたのです。 恐らく、わたしと同世代の方は共通の認識をお持ちだと思います。 Pexels による Pixabay からの画像 大好きなアニメ番組(当時はマンガ番組と呼んでいた気がする)が放送される日などは、待ち遠しくて、その日一日がワクワクだったことを思い出します。当時の子供たちの遊び(楽しみ)と言えば、ソフトボールや虫捕りなど野外で自然と戯れる以外は、極々限られた遊びしかなかった時代です。贅沢はできない時代でしたから、テレビでマンガを見ることは当時としては最高の娯楽だった訳です。 やがて、自身の成長とともに、好みの番組はマンガからドラマ、音楽番組、バラエティーなどへと移り変わり、同時にテレビ以外の楽しみも増えてきましたが、それでも相変わらずテレビは私たちの暮らしの中心にあったのです。 そんなテレビですが、子供ながらに一つ気になることがありました。それは、連日のようにテレビに登場していた人が、いつの間にか姿を見せなくなるという現象です。 みなさんはそうした芸能人や出演者が、当時からほんのわずかですが存在していたことにお気付きだったでしょうか。 いつの間にかテレビの画面から姿を消えてしまうタレントさん。 「そう言えば、そんなタレントさんいたネ!」といった調子で時折話題にのぼる芸能人。 世にいう「一発屋」さんという人たちです。 前置きが長くなりましたが、今回はそんな「一発屋」さんについてお話したいと思います。 🔷  かつては、「一発屋」さんはお笑い系...

昭和100年と2025年から思いつくこと

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Paulina Kupis による Pixabay からの画像 今更ですが、 今年2025年は昭和の元号に置き換えると「昭和100年」に当たるとのこと。マスコミをはじめ世間では「昭和」が俄かに活気づいています。昭和生まれのわたしにとっては、この件はよく言われる「昭和は遠くなりにけり」を実感するところですが、このフレーズは実は「昭和 も 遠くなりにけり」がオリジナルのようです。「 も 」なので当然に昭和以外の別の何かがあるはずです。それが「明治」という年号だそうで、そもそもの出所は俳人の中村草田男氏が昭和6年に詠んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句で、それが元祖。後にこの句に準えて「昭和は遠くなりにけり」というわたしたちが知るフレーズが世に知られるようになったようです。 beasternchen による Pixabay からの画像 さて、雑学はこれくらいにして、昭和、平成、令和と3元号を生きてきたわたしとしては、 2025年を「昭和100年」と置き換え表現されるまでは、実は元号に関してはほとんど関心はありませんでした。誰が気付いたのか知りませんが、昭和が100年の節目であるとわかると、関心度も高まり受け止め方も大きく変わるものだと、我ながら驚いています。 わたしが昭和100年という表現を聞いてまず思ったのが「我が母親が生きていたら今年で100歳になるんだ!」という感慨でした。こうした思いは西暦では湧き上がってこなかったと思います。昭和という元号だからこそ導き出されたセピア色の思いだったとわたしは感じています。 2025年が昭和だったら100年という事実を知って以来、わたしの中で昭和の時代が俄に懐かしく、愛おしく思えるようになりました。西暦では感じとれない微妙なニュアンスが昭和という響きにはあるのだと感心しました。 改めて言葉の偉大さと影響力を痛感したところです。 今回はそんな「暦」に関するお話しを少々。 🔷 さて、わたしは以前から日本の元号というものに対し、些か懐疑的だったところがありました。なぜなら、次の元号が何であろうと自分には関係のないことだし、そもそも煩わしささえ元号に対し感じていたからです。 この投稿がどういった人に読んでいただいているのかは、わたしには分かりませんが、 現在、社会人現役の方も、わたし同様に現役を退いた方も、少なからず経験のあること...