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本の紹介:「ベルリン・フィル 栄光と苦闘の150年史」  芝崎裕典著 中公新書

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◆ 世界最高峰のオーケストラ、その「真実」への入り口 ◆ クラシック音楽に詳しくない人であっても、その名を一度は耳にしたことがあるであろう「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」。世界最高峰のオーケストラとして君臨し続けるこの楽団について、これまで数多くの書籍が編まれてきました。しかし、今回取り上げる新書『ベルリン・フィル 栄光と苦闘の150年史』は、それら従来の書籍とは一線を画す、極めてユニークな視点を持った一冊です。 本書の最大の特徴は、ベルリン・フィルを単に「素晴らしい演奏を聴かせる音楽団体」として捉えるのではなく、ドイツという国家、そしてベルリンという都市が歩んできた激動の歴史の中に位置づけている点にあります。 音楽関係史という学問は「歴史上、音楽が社会や文化とどのように関わってきたかを学ぶもの」と認識していました。その視点に立てば、世界で最も音楽を愛すると称されるドイツの人々とベルリン・フィルが、歴史の荒波の中でいかにして存続し、いかにして世界最高峰の地位を維持し続けてきたのか、というプロセスこそが本書の最大の読みどころとなるのです。 もし、あなたが「ベルリン・フィルと他のオーケストラの音色の違いは何か」あるいは「その音色の違いはどこから来るのか」を知りたいのであれば、本書はその期待には応えないかもしれません。そのような純粋に音楽的な興味を満たすためには、実際にコンサート会場に足を運び、その音を直接浴びるべきだと考えます。しかし、そこには現代のクラシック音楽ファンが直面する、厳しくも現実的な「壁」が立ちはだかっています。 ◆ 高嶺の花としてのベルリン・フィルと、デジタルという選択 ◆ ベルリン・フィルの演奏を生で聴くことは、音楽評論家などの専門家でない限り、金銭的にも機会的にも容易なことではありません。特に日本のファンにとって、彼らの来日を待つことが第一関門になります。。私自身の経験として、1970年代の「帝王」カラヤンとベルリン・フィルの来日公演の際のエピソードをご紹介しておきましょう。 当時の記録によれば、S席のチケット代金は一万数千円でした。現代の感覚ではそれほど高額に感じられないかもしれませんが、当時の大卒初任給が5~6万円であったことを考えれば、その異常振りが理解できます。さらに、一人一応募の抽選制でありながら、入手は「夢のまた夢」と言われるほどの...

やっぱり、カラヤンはいい!

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  とにかく、それはベルリンのイエス・キリスト教会内に響き渡り、まるで天まで届くような圧倒的な演奏だった。勿論、わたしは教会内に実際にいた訳ではない。 しかしながら、その演奏はわたし自身が恰も教会内にいるかのような圧倒的な迫力と緊張感を、わたしに感じさせてくれたのだ。 NoName_13 による Pixabay からの画像 その演奏とはカラヤン、ベルリン・フィルのブルックナー交響曲第9番だった。それもイエス・キリスト教会で録音されたレコード盤でのものだ。この第9番はブルックナーの交響曲の中で私が最も好きな交響曲だから、何人かの指揮者のCDをもっているし、何度も何度も聴いてきた曲だが、このカラヤンのそれは一味も二味も別格だった。否、そのときは別格に感じられたのだ。 カラヤン、ベルリン・フィルのブルックナー交響曲第9番 1966年3月  イエス・キリスト教会にて録音 実はつい最近、CDプレイヤーとアンプが相次いで故障したために、取り敢えず別機器の接続を試みたが、アンプはあるがCDプレイヤーの方がない。やむなくレコードプレーヤーを接続し試聴となったのだが、これが思わぬ感動に導いてくれたのだ。 その感動のひとつがレコード盤の底力というか素晴らしさを再発見したことだった。 しかし、それ以上に感動したのが、このところその名前も話題もご無沙汰のカラヤン、ベルリン・フィルの唯一無二とも言える重厚な演奏だった。接続テストの意味で掛けたのだが、その再生音の素晴らしさと緊張感ある演奏に全曲を聴いてしまった。私がもっている廉価なオーディオ機器でも優れた演奏は聴き分けることができるのだと思った。 そのとき思わず出たのが「やっぱり、カラヤンはいい!」のフレーズだった。 今回は、そんなヘルベルト・フォン・カラヤンについて、多少の独断と偏見が入るが、この際お許しいただき、これまでの私説をお話しよう。 📌蛇足ながら、上記でふれた「レコード盤の底力と素晴らしさ再発見」について関心のある方は、下記の筆者別ブログ投稿を参照いただきたい。 「やっぱり、レコードはいい!」 🔷 ところで、このカラヤンのブルックナー交響曲第9番を聴くのも、尚且つレコード盤で聴くのも数十年ぶりのことだった。確か、このレコードを買ったのは高校生の時だったと思う。学生の小遣いで2,000円の出費は当時はたいそうな痛手だった...

ときには技術の進歩に抗うことも ~オーディオの歴史から考える~

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今更わたしが言うまでもないことだが、昨今の技術革新にはほんとうに驚かされる。 特にAIの技術はあらゆる分野において、わずか数年で現代社会にとって必要不可欠な存在となっている。 一昔前、パソコン(コンピュータ)がわたしたちの生活環境に入り込んできたときも、それなりの衝撃はあった。しかし、AIにおいてはパソコンの域をはるかに超えたスピードとボリュームで、わたしたちの生活全般を大きく変えようとしている。 確かに思いかえせば、技術の進歩によって、わたしたちの生活は豊かになり便利になり、そして快適になった。これまでの時代は、そうした流れで進んできたのだ。 しかしながら、そうしたこれまでの流れをわたしたちは疑いなく無条件に、喜んでよいのだろうか。最近は特に疑問に思うことがしばしばである。 オール電化の家に住み、無人の電車に乗って通勤し、休日は自動運転補助付きのマイカーに乗ってドライブ。まるで先日、久々に観たビデオ「バック・トゥー・ザ・フューチャー Part 2」の世界そのものではないか。 近い将来そんな生活がわたしたちの日常生活になるとしたら。 否、もうすでにその一部は現実化しているではないか。 改めて、こうした「進歩」もしくは「発展」は、わたしたち人間にとって本当に喜ぶべきことなのだろうかと疑ってしまう。と言うよりも、むしろ危機感すら覚える。 「腹八分目に医者いらず」という「たとえ」が、その昔よく使われたが、物事は程々に止めるのがよくて、行き過ぎは禁物だという内容だが、わたしなどは古い人間なのでついつい賛同してしまう。 そもそも、わたしたちが築き上げてきた「進歩」とはいったい何だろうか。 そして、わたしたちは何のために努力して来たのだろう。 ある意味、人類の歴史が「進歩」の歴史だったことは確かだが、その当初の目標が仮に「人間を楽にさせる」ことだとしたら、すでにその目標は充分にクリアしているではないか。そして、いまは「人間を堕落させる」段階まで来てしまったのではないかと思ってしまう。 2025年3月28日 小さな梅の実が・・・ もうそろそろ、前に進むことばかり考えず、現状維持という選択肢もアリではないかと思うのだが、どうだろう。 今回はそんなことを考えてみたい。 🔷 わたしは音楽を聴くことが大好きなので、オーディオやデジタルの分野に於いて「進歩=新しくなること」を常々疑問に感...