虫捕り

今年の夏は本当に暑かった。記録尽くめの夏だったようだが、記録はドジャースの大谷君だけで充分だ。


Gerd AltmannによるPixabayからの画像


そう!思い返すだけで暑さが戻ってきそうでゾッとするが、そんな夏にチョッとした懐かしく微笑ましい出来事があったので紹介しよう。

それは今年の夏の初めのことだった。最近ではほぼ見かけなくなった珍しい光景に遭遇したのだ。そして鬼面仏心さながらに、思わず笑みがこぼれたのを思い出した。それはあまりに無邪気で懐かしい光景だったからだ。見たところ幼稚園か小学一年生ほどの小さな男女二人が、虫とり網と虫籠を下げて歩いている光景だった。
どうやら、その虫籠には何も入ってないようで、釣果ならぬ虫果(チュウカ?)は今のところ残念ながらゼロのようであった。



RalphによるPixabayからの画像


かつて、数十年前の自分も、この時期(7月中旬ころ)には網と虫籠をブラ下げて、野山を駆け回っていた姿が目に浮かぶ。
いまと違って当時は、野山をひと回りすればセミや蝶やトンボを捕まえることが容易にできた時代だ。と言うか、そもそも現代の都会には野山自体がほとんど存在しないから、虫とりもそう簡単ではない。件の幼子たちを含め、現代の子どもたちはなんとも可哀想だ。


Markéta KlimešováによるPixabayからの画像


かの幼な子二人は、いったいどんな虫を捕りたかったのだろう。
そして、あの虫とり網はどこで買ったのだろうか。
それすらも今のボクには分からないことが、チョッと淋しく情けなかった。

ボクらの時代は近所の駄菓子屋へ行けば網も虫籠もいつでも買うことができた。
そして、その網にさらに竹竿をつなげて超ロングの虫とり網を作ったものだ。
これなら高い木にとまった蝉も捕まえることがでるし、何より仲間に自慢もできた。
あの頃は物が十分になかった時代だから、逆に何でも工夫して自分たちで作ったのだ。

いまの時代は子供が虫とりをしないから、ボクの家の裏山ではニイニイセミ、アブラゼミ、ミンミンゼミそしたクマゼミまでが我が物顔(?)で合唱している。


WaSZIによるPixabayからの画像


セミに関しては、昔よりも今の方が断然たくさん鳴いているように思う。
因みに、クマゼミは10数年前までは関東には生息していなかったが、いまではこの辺の主(親分)になったかのように、一番目立っている。これもまた温暖化による異変の一例なのかも知れない。

そんなことを思いつつ、「今年はどうしたのだろう?」と気になることが一つあった。
それは、ヒグラシの鳴き声を聞いていないことだ。
ヒグラシは普段なら8月中旬ごろから鳴き出す。逆に、今年は秋を告げるツクツクボウシが例年になく元気で長期間鳴いていた。どうやら季節感が徐々に狂い出してきたのだろうか。
ヒグラシのあの「カナカナカナ〜」という鳴き声は、ボクには「もうすぐ夏が終わりですよ!」と告げているようだった。
そして、夕暮れ時、雑木林に響きわたる物悲しい鳴き声は、暑い夏の終わりと大切な何かが消えてしまうような、そんな寂しささえも暗示しているかのよに感じた。

かの雑木林を駆けずり回って、夢中で虫たちを追いかけていたあの頃は、毎年規則正しく季節が巡ったように記憶している。それが当たり前だったのだ。


西の空が夕陽のオレンジ色に染まる頃、お腹をすかし家路を急ぐと、近所の家々から夕飯の支度をする鍋の音や美味しそうな匂いが道端に漂った。そして彼方此方で子供の名を呼ぶ母親の声が聞こえ、それに呼応するかのようにボクらの空腹感は高まり、自然と足速になったものだった。
それは、世の中がまだまだ貧しい昭和の時代の原風景で、思い起こせば家々のガラス窓からは楽しい笑い声と、明るい未来を期待する温もりがそこにはあったように思う。


Zhivko DimitrovによるPixabayからの画像


そう思うと今の時代、確かに生活は便利に、そして豊かになったかも知れない。
しかしながら、「わたしたちの未来はバラ色ですか?」と問われたら、いまのボクには「イエス!」と言える自信がない。

世界各地で起きている地球温暖化による気候変動。
水害、干ばつ、竜巻、そして台風の巨大化など、人間にとって歓迎すべきものは何も無い。
更に、人間同士の争いごとも地球規模で拡大している。
「共有」を叫びながらも、実のところは「排他」を選択している人々。
この先、私たちの不安は増すばかりだ。

我らが地球は、そして人類はどうなってしまうのだろうか。
虫捕りに明け暮れたあの貧しかった時代、ある意味、あの頃の方がボクたちの生活、心は豊かだったのかも知れない。

最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA


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