今更わたしが言うまでもないことだが、昨今の技術革新にはほんとうに驚かされる。
特にAIの技術はあらゆる分野において、わずか数年で現代社会にとって必要不可欠な存在となっている。
一昔前、パソコン(コンピュータ)がわたしたちの生活環境に入り込んできたときも、それなりの衝撃はあった。しかし、AIにおいてはパソコンの域をはるかに超えたスピードとボリュームで、わたしたちの生活全般を大きく変えようとしている。
確かに思いかえせば、技術の進歩によって、わたしたちの生活は豊かになり便利になり、そして快適になった。これまでの時代は、そうした流れで進んできたのだ。
しかしながら、そうしたこれまでの流れをわたしたちは疑いなく無条件に、喜んでよいのだろうか。最近は特に疑問に思うことがしばしばである。
オール電化の家に住み、無人の電車に乗って通勤し、休日は自動運転補助付きのマイカーに乗ってドライブ。まるで先日、久々に観たビデオ「バック・トゥー・ザ・フューチャー Part 2」の世界そのものではないか。
近い将来そんな生活がわたしたちの日常生活になるとしたら。
否、もうすでにその一部は現実化しているではないか。
改めて、こうした「進歩」もしくは「発展」は、わたしたち人間にとって本当に喜ぶべきことなのだろうかと疑ってしまう。と言うよりも、むしろ危機感すら覚える。
「腹八分目に医者いらず」という「たとえ」が、その昔よく使われるが、物事は程々に止めるのがよくて、行き過ぎは禁物だという内容だが、わたしなどは古い人間なのでついつい賛同してしまう。
そもそも、わたしたちが築き上げてきた「進歩」とはいったい何だろうか。
そして、わたしたちは何のために努力して来たのだろう。
ある意味、人類の歴史が「進歩」の歴史だったことは確かだが、その当初の目標が仮に「人間を楽にさせる」ことだとしたら、すでにその目標は充分にクリアしているではないか。そして、いまは「人間を堕落させる」段階まで行過ぎてしまったのではないかと思ってしまう。
![]() |
2025年3月28日 小さな梅の実が・・・ |
もうそろそろ、前に進むことばかり考えず、現状維持という選択肢もアリではないかと思うのだが、どうだろう。
今回はそんなことを考えてみたい。
わたしは音楽を聴くことが大好きなので、オーディオやデジタルの分野に於いて「進歩=新しくなること」を常々疑問に感じていた。
もしかすると、世の中全般においても言えることなのかもしれないが、今回はわたしが長年嗜んできたオーディオとデジタルの分野にターゲットを絞ってお話ししたいと思う。
先ずは、わたしが愛好してきたオーディオの歴史を振り返ってみたいと思う。
さて、わたしは昭和生まれで、昭和を前期、中期、後期と3つに分けるとすれば、中期に該当する人間である。
なので、幼少期に音楽を初めて聞いたのは恐らくラジオだったと思う。やがてテレビが出現するが、テレビは音楽を聴く主力製品ではないのでここでは除外する。
そのラジオも初めは大袈裟に大きかったが、それまでの真空管から半導体(トランジスタ)を利用することで極めて小さな製品が普及する。わたしの自宅にもともとあったのも恐らくトランジスタラジオだったと思う。
次に登場するのが、プレイヤーとアンプが一体で2台のスピーカーがセットになった「セパレートステレオ」と呼ばれた音響機器だ。
「ステレオ」と言うのは「モノラル」に対する用語で、本来は録音方式の一つなのだが、当時はこの種の製品を総称して「ステレオ」と呼んでいたようだ。
詳しい説明はここでは省略するが、ステレオ録音は従来のモノラル方式に比べ、立体的で奥行きのある音を楽しめるものだった。いまの時代では当たり前だが、はじめてその音を聴いたときは、その臨場感と迫力に圧倒された。
余談だが、その昔FM東京(現TOKYO FM)に「ジェット・ストリーム」という音楽番組があった。ポール・モーリアやレーモン・ルフェーブルなどのポップス系オーケストラのイージー・リスニングと声優の城達也さんの洒落たナレーションが楽しめる番組だった。
確か午前12時からの番組だったと思うが、当時わたしはヘッドホーンを付け寝ながらその番組を毎日聴いていた。
思い出すのは、その番組を見つけた(初めて聴いた)ときのことだ。冒頭の有名な城さんのナレーションのバックから聞こえてくるジェット機の音のあまりの迫力とリアルさに、思わずヘッドホーンを頭から外し、部屋中を見回した記憶がある。枕元を襲ったそのジェット機の爆音は、「これぞステレオ録音の音」と、誇らしげに叫んでいるかのようだった。
当時わたしが親に買ってもらったステレオは、いまはなき「トリオ」というメーカーのコンポーネント・ステレオだったが、音楽大好き少年の過酷な使用に耐え、よく頑張ってくれたと思う。確か「ソリッド・ステート・ステレオ」とか、聞きなれない名称がついていて、いかにも高級な印象があった。
🔷
さて、話を元に戻すと、当初のステレオはプレイヤーとアンプ・チューナーが縦に一体になっていて、その両サイドにスピーカーを置くタイプで、3つ並べると横幅はなんと畳一畳ほどの大きさになった。その大きさから当時は豊かさの象徴のように思われたようだが、やがて技術の進歩とともに、その大きさはコンパクト化していった。
それは、わたしたちの価値観が「大きいことは良いことだ」から「小さくても迫力ある音を出せる製品の方が優秀」という方向へ変化していったことを意味する。恐らく、当初のステレオの大きさは、手狭な日本の家屋にはそぐわなかいという事情もあってのことだったのだろう。
ちなみに、このときのセンター部のプレイヤーとは、レコード・プレイヤーのことである。まだまだ、カセットデッキやCDプレイヤーもなかった時代である。
この頃はLP盤が全盛期だったが、EP(シングル)盤という直径17cmの小さなレコードもあり、こちらもドーナツ盤の愛称で人気があった。
主にミュージシャンが新譜を出す時はこのドーナツ盤でリリースされ、A面、B面に一曲ずつ収録されているのが一般的だった。
当時、モノラルからステレオ録音のレコード盤になったときは、当然にその美しい音、クリアな響きに魅了された。これこそが音楽鑑賞における究極の製品(機械)で、この先これを上回る機械は出現しないだろうと、単純なわたしはそう思った。
🔷
ところで、製品などを評価する場合、いくつかの視点(観点)があると思うが、例えば機能性や実用性、あるいは耐久性やその製品自体の性能の良し悪し、または価格が高価か廉価かといった判断要素である。最近流行りの「コスパが良いか悪いか」といった表現は、これらの要素を加味したトータル的な判断なのだろうが、思うに、こうしたコスパ重視の志向が、要望の多種多様化、そして技術の進歩へとつながったのであろう。
そんな要望の多様性から、次に出てくるのがテープデッキやカセットデッキなど、ユーザーが自分自身で録音ができる機器だ。このテープデッキやカセットデッキはレコードと並走する形で私たちの暮らしに溶けこんでいった。
エアーチェックやダビングといった、当時は聞きなれない用語が出始めたのもこの頃だった。
カセットデッキの出現は、ある意味エポックだったと思う。それはマイホームからアウトドア、カーステレオの時代へと拡がり、好きな音楽を聞きながらドライブを楽しむという贅沢へとつながってゆく。
これは前述した機能性や実用性を重視した結果の普及だったが、その後に出て来るのが最強と思われたCD(コンパクトディスク)である。
こちらはレコードよりも小さく、音もクリアでレコードのように針との接点がないから傷がつきにくいという特性を持っていた。
扱いやすいという点ではオーディオ界の優等生だった訳だ。
このCDの流れは言ってみれば「音の良さ」を追求し性能面を重視した動きだったが、結果として機能性をもカバーしたことになる。
![]() |
BrunoによるPixabayからの画像 |
🔷
CDが登場したときは、レコード派とCD派に世の中が二分された感があった。
いわゆる、「デジタルvsアナログ」論争が盛んだった時代である。
両方のメリット、デメリットが盛んに議論され、音楽雑誌などには、オーディオ評論家や音楽評論家のコメントや討論会の模様が毎号のように掲載されていたのを思い出す。
その中で当時一番注目されたのが音の周波数である。
一般に、人間の耳が聞き取れる周波数は20Hz(低音域)から20kHz(高音域)の範囲らしいが、アナログ(レコード)が全範囲をカバーするのに対し、デジタル(CD)の場合は上記の人間が聞き取れる範囲以外の音をカットしデーター量を少なくしたという。
詳しいことはわからないが、デジタルの場合、データー量を少なくするのにはそれなりの理由があったという。音のデータ量をなるべく小さくして、直径12cmのCDの盤に納める必要があったからだそうだ。
ちなみに、CDの12cm規格が決まった経緯には、次のようなエピソードがある。
12cmのCDに収まるデーター量は650MBから700MBだそうで、ベートーヴェンの交響曲第9番(合唱付き)が一曲丸ごと収まるのを基準にしたとか。
さて、こうした「デジタルvsアナログ」論争のなかで、アナログ派は、デジタル音は低音域と高音域をそれぞれ削っているから、「音に深み、暖かさ、弾力がない」とか「音がキンキンする」などと主張し、デジタル音に否定的だったようだ。
そう言えば、アナログ派のもう一つの主張として、レコードジャケット(ジャケット画像)の存在感があった。縦横30cm超のジャケットの付加価値は捨てがたいと強調していた。
そう!ジャズ喫茶ではレコードジャケットがなかったら、サマにならない。
これに対して、デジタル派(CD派)の主張は、メディアがコンパクトなこと、扱いやすいこと、そして音がクリアなことなどだった。
ある意味、アナログ派の「感情」重視に対して、デジタル派の「理性」重視と言えるのかもしれない。
![]() |
Gerd AltmannによるPixabayからの画像 |
どの世界もそうだろうが、新人とベテランのどちらが強いかと言った話題は、誰もが関心を持つ題材だから、この論戦は長きにわたって繰り返された。
やがて、こうした論戦は最終的な結論が出ぬまま、わたしの記憶ではフェードアウトしていったように思うが、現実にはレコードはレコードショップから消え、CDの時代になっていったのは、ご承知の通りである。
その後、MD(ミニディスク)という、カセットとCDの機能を併せもつ製品もいっとき現れたが、何故か大きな流れにはならず消えていった。
やはりレコードとCD、この両者の存在感は別格だったようだ。
だがその後、皆さんもご存知のように、音楽データをダウンロード方式で購入し、専用ミニプレイヤーやスマホで聴くというモバイルスタイルが一般的となり、その延長線上にストリーミング再生があり、現在に至っている。
これはサブスクという新たな契約形態で「音楽媒体を購入するのではなくて、契約した音楽配信サイトで「好きな曲を好きなだけ聴ける」という「聴き放題」が特徴のサービスだ。
「買うからレンタルの時代、それも返却しなくて良いレンタル」なのだから手間要らずで、現代人にはピッタリのシステムと言えるのかも知れない。
現在のわたしのように、かつてレコードやCDを買い集め、部屋中、家中がレコード、CDだらけという状況は、恐らくいまの若い人たちには考えられない光景だろうと思う。
わたしなどは物が少ない時代に生まれているから、「物」に対する執着というか愛着があって、なんでも集めたいという意識が強い。それに対して、あくまでもわたしの推測だが、いまの人たちは「物」に対する執着はあまりないように思える。「その時、その瞬間が楽しければそれで良し」と割り切っているのだろうか。
時には、そうした考え方を羨ましく思えることもあるし、見習いたい部分もあるのだが、性分なのだろう、どうしても改めることができない。
なので、書籍においてもPDFのデジタル書籍の優位性は理解していても、やはり「紙の本」を買ってしまうという有様だ。
![]() |
Matthias GroeneveldによるPixabayからの画像 |
そんな時代に逆行する生き方をしている私は、技術の進歩という点に於いて世の中の動きに懐疑的なのだが、このところの動きで一つだけ好ましく思っていることがあるのだ。
それは、もうかなり前からの動きではあるが、「レコード盤の復活」である。
この現象はこれまでの世の中の流れに逆行する動きで、極めて珍しい現象で歓迎すべき出来事なのだ。
この現象は単なる中古レコードへの郷愁、懐古趣味に留まらなかったところが画期的で、素晴らしいと思う。
そして、単なるブーム、一過性に留まらなかった点が、私にとっては極めて重要なのである。
どうやらこの動き、本物のようである。
これまでも、消えていったもの、去っていったものに懐かしさを感じる人の常だったが、
「懐かしい!」に留まっていたのがこれまでの状況だった。それがレコードの動向に関しては、状況はまったく異なっているように思えた。
それは、新たにレコード盤として新譜が発売されたり、それに連動してレコードプレイヤーも、いくつかのメーカーで新たに生産されている状況からも窺えることだ。
こうした動きは、わたしの記憶では未だかつて無かったように思うし、画期的な現象でもある。レコードに関しては、確実に時代が逆行しているのである。
わたしにとっては極めて望ましい現象なのだが。
🔷
もうそろそろ、人類は前に進むことばかり考えず、良いもの、優れた物に対しては現状維持ということを考えても良いのではないかと感じる。
第二、第三のレコード現象が起きてほしいと望んでいる。
メーカーにとっては新製品のための生産ラインと従来品の生産ラインの両方を維持することはあらゆる面で現実的でないことはわかるが、長期的な展望をもっての検討課題として考えていただくことはできないものだろうか。昨今「限られた資源を大切に」など、エコの観点から物を大切にしようという機運はあっても、具体的な行動に結びついていないのが現状である。
そのためには、わたしたちユーザー側もいたずらに新しい物を追い求めるのではなく、良いものを見抜く確かな目と、長く大事に使い続ける根気とを養わなければいけないと思う。
個人的には、かつてのオープンリールを使ったテープデッキや、オーディオ製品ではないがタイプライターなども復活生産していただければ、わたしは真っ先に購入する一人になるだろうと思っている。
![]() |
dacsdealsによるPixabayからの画像 |
🔷
ストリーミング再生で次から次と目新しい曲を聴きながら、こうしたブログを書いている昨今だが、その便利さの反面、何かが欠けているという意識、漠然とした物足りなさを感じる日々が続いていた。
「そんな物足りなさとは何だろう」の疑問に答えてくれたのが先日の出来事だった。
出来事と言っても、それほど大袈裟なことではないのだが、それは久しぶりにカラヤン、ベルリン・フィルの演奏でブルックナーの第9番をレコード盤で聴いたときのことだった。
ご存知のように、カラヤンはベルリン・フィルとこのブルックナーの第9番の交響曲を2回録音している。1966年3月(イエス・キリスト教会)と1975年9月(ベルリン・フィルハーモニーホール)の2回である。
どちらも素晴らしい演奏だが、わたしは高校生のときに買った1966年盤のレコードに、どうしても愛着を感じてしまう。久々のレコードの音、ブルックナーの第9番の迫力、そしてカラヤンの指揮と、どれをとっても初めての経験ではなかったのに、そのときとても新鮮に感じたのは何故だろうと考えた。
![]() |
Richard DuijnsteeによるPixabayからの画像 |
「レコードって、こんなにいい音だったッケ!?」というのが、そのときの率直な感想であり新たな発見だった。
レコードジャケットからレコードを取り出し、ターンテーブルにそれを載せて、静かに針を置く、そんな面倒なことが何故か楽しく感じる。
途中、「プツッ!、プツッ!」というレコード独特の雑音もまた味わいのひとつに思えてくる。
そんなユトリというか余裕が、いまの時代には最も求められていることではないだろうかと感じた。
画面のファイルをワンクリックすると、すぐに音楽が流れてくるのも便利で快適なことかもしれないけれど、敢えて、時代に逆行するような「不便さ」も捨てがたいものだ。
現在もなおレコード盤が健在ということを考えると、これまで世に出た音楽メディアの中ではレコードが最強のメディアと言えるのかも知れない。
そして、この間のレコードの復活はどうやら本物だったという感触も充分得ることができたように思う。
これからの時代、「進歩」という、前に進むことばかりではなく、第2、第3のレコードのような「逆流現象」が起こることを期待したいものだ。
何故なら、これまでの傾向は「古いものを否定(削除)し、新しいものは肯定」だった。
しかし、古い物(消えていった物)の中にも優れた物はあったはずである。
「限られた地球の資源を大切に」と言いつつ、わたしたちは、そうしたものを残念なことに置き去りにしてきたのだと思う。時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、どうして併用してこれなかったのだろう。
繰り返される日々の中で、わたしたちは理由もなく早足になってはいないだろうか。
急ぐ理由はどこにあるのだろう。
オープンリールをテープデッキにセットし、再生レバーをキュッとひねる。
あるいはターンテーブルにレコードを置き、静かにレコードの針を下ろす、そんな心に余裕が欲しいものだ。
何はともあれ反省である。
今回も、ロングバージョンになってしまいました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA
0 件のコメント:
コメントを投稿