IN MY OPINION:「ネット選挙」という言葉がイメージするものとは
米グーグルの日本法人の発表によると、今回の参議院選挙で各政党の公式インターネットサイトを閲覧した有権者の割合は、最高数字の自民党でさえ1%代だったそうである。
つまり、今回の選挙で政党の公式インターネットサイトを参考にし、投票に活かした有権者は非常に少なかったということである。「ネット選挙」元年だから仕方がないと言ってしまえばそれまでだが、人々の反応や認識からいろいろのことが見えてきたように思う。
解禁後、初めての選挙と言うことで、当局をはじめマスコミ報道関係者の間では大変注目されていた「ネット選挙」だったが、ふたを開けてみれば一般有権者の関心はそれ程でもなかったようである。このネット選挙に関しては、議員のブログ等の活用に対する是非が解禁以前から問題視されていて、この間かなり議論がなされその成り行きが注目されていた。だが、関係者の盛り上がりだけが目立ち、周りは白けムードだったことが図らずもこの選挙で明らかになった形である。
もっとも選挙戦中盤、あるテレビ曲の放送で「ネット選挙とは?」という街頭での問いかけに「ネットで投票ができるんでしょ」と回答する人が意外に多かったのを見ても、こうしたグーグルの調査結果の数値はある程度想像できたのだが・・・
確かに、投票率低下の問題や今回のようなネット選挙に対する関心、認識の低さは憂うべき問題に違いないが、今回私が問題にするのは「ネット選挙ではネットから投票ができる」という多くの人たちの認識に対してである。言い換えれば、「ネットは万能」と言ったネットへの過信(依存)に対する警鐘である。
かつて、インターネットがまったく極々一部の人たちのコミュニケーションツールであった頃、一般の人びとはインターネットの極々一部の機能を知っただけで驚愕の関心を示したものだった。当時の参考書などを見ると、「自宅に居ながらにして米国のホワイトハウスの概要がわかる」的な表現があり、まさしくホームページのことを言っていたのであろうが、そのホワイトハウスの画像がパソコンのディスプレイ上に徐々に表れる様を固唾を呑んで見守ったものである。そう、あの頃はインターネットのすべてが新鮮であり、感動的だったのである。それまで見慣れない不格好な形をしたパソコンケースは、ある意味触るのが怖かったし、取っつきにくい存在だったが、その圧倒的なパワーは感動的であり、大いなる魅力だったのである。
やがて、月日は流れ人々のパソコンやインターネットに対する知識も向上し、ネットという用語が一般化するにつれ、私たちのパソコンやインターネットに対する違和感や感動は、それに反比例するかのように低下していった。そうした現象を一方では「順応性が高い」と評価する面もあるのだろうが、今回の「ネット選挙」に関する人びとの認識のように、その「順応性の高さ」が禍し「パソコンやインターネットは万能」という誤った過信に繋がったと言えなくもないのである。
自動車の運転のように、初心者の頃はおっかなびっくり操作をしているのでそれ程の過ちは犯さないが、チョッと慣れた中級者の中に過信という心の隙ができて、それが大きな事故に結びつくということはよくある事例と聞く。
パソコンやインターネットを扱うデジタル社会にこのことを置き換えても、まったく同じことが言えるのではないだろうか。例えば、ネットからフリーソフトをダウンロードしてインストールする際に、いくつかのダイアログが表示されるが、初心者の頃は丁寧に一語一語その文章を読んでいたが、そうしたインストールの操作に慣れてくると、私たちは(私も含む)そうした注意書きを疎かにする傾向になってくる。「OK」や「はい}ボタンを反射的にクリックしてしまうことだ。
その結果、悪性のツールバーやアドインなど、極端にはウィルスまで自分のパソコンに取り込んでしまうのである。
但し、こうした被害以上に私が一番懸念することは、「ネットは万能」と言ったネットに対する安易な過信が私たち個人の潜在意識にもたらす影響である。つまり、現代社会はネットで検索すれば何でも分かるという一見便利な社会だが、その反面で私たちの思考能力はどんどん低下していくのではないかということである。考えることを疎かにする人間に果たして輝かしい未来はあるのだろうか。PCの漢字変換機能によって、私たちの漢字書き取り能力は低下していると言われて久しいが、それと同じことが私たちの「考える」という価値ある作業に多少なりとも影響を及ぼしていると考える方が自然であろう。
ネットと聞けば直ちに何でもできる世界と思い、その勝手な拡大解釈が前述の「ネットで投票ができるんでしょ」ということに結びついたのだろうが、確かに今のネットワークは技術的にはその能力は充分あるだろうが、行政面でそこまでは認めなかったというのが現実なのである。安易な思い込みが招いたミステイクなのだろうが、他人事とは言えない考えさせられる事例でもある。
インターネットの世界は私たちが想像する以上の圧倒的な情報で溢れているに違いない。その中には当然正しい情報もあれば、間違った情報も潜んでいる。そうした情報の存在を知り、差異を判断する力を持つことが、以前にもましてこれからの時代は求められるべき姿勢であり能力だろうと思う。
確かにパソコンやインターネットは便利である。その能力を活用して私たちの生活を便利に快適にすることは間違ったことではないと思う。しかし、そうしたものと上手に付き合っていくには、ある種の気構えと前述したようなある程度の努力を惜しんではいけない。
「ネット選挙とは?」という上記の事例に象徴されるように、ネットの表面的な付き合い方ではある種の危険を伴うこと、また、そのことが大きな問題へと発展しかねないということを充分理解する必要があるだろ。デジタルの世界は日進月歩である。それ故に現時点で、パソコンやインターネットができること、できないことの限界を知ることも重要な自己防衛策のひとつだと思う。
つまり、今回の選挙で政党の公式インターネットサイトを参考にし、投票に活かした有権者は非常に少なかったということである。「ネット選挙」元年だから仕方がないと言ってしまえばそれまでだが、人々の反応や認識からいろいろのことが見えてきたように思う。
解禁後、初めての選挙と言うことで、当局をはじめマスコミ報道関係者の間では大変注目されていた「ネット選挙」だったが、ふたを開けてみれば一般有権者の関心はそれ程でもなかったようである。このネット選挙に関しては、議員のブログ等の活用に対する是非が解禁以前から問題視されていて、この間かなり議論がなされその成り行きが注目されていた。だが、関係者の盛り上がりだけが目立ち、周りは白けムードだったことが図らずもこの選挙で明らかになった形である。
もっとも選挙戦中盤、あるテレビ曲の放送で「ネット選挙とは?」という街頭での問いかけに「ネットで投票ができるんでしょ」と回答する人が意外に多かったのを見ても、こうしたグーグルの調査結果の数値はある程度想像できたのだが・・・
確かに、投票率低下の問題や今回のようなネット選挙に対する関心、認識の低さは憂うべき問題に違いないが、今回私が問題にするのは「ネット選挙ではネットから投票ができる」という多くの人たちの認識に対してである。言い換えれば、「ネットは万能」と言ったネットへの過信(依存)に対する警鐘である。
かつて、インターネットがまったく極々一部の人たちのコミュニケーションツールであった頃、一般の人びとはインターネットの極々一部の機能を知っただけで驚愕の関心を示したものだった。当時の参考書などを見ると、「自宅に居ながらにして米国のホワイトハウスの概要がわかる」的な表現があり、まさしくホームページのことを言っていたのであろうが、そのホワイトハウスの画像がパソコンのディスプレイ上に徐々に表れる様を固唾を呑んで見守ったものである。そう、あの頃はインターネットのすべてが新鮮であり、感動的だったのである。それまで見慣れない不格好な形をしたパソコンケースは、ある意味触るのが怖かったし、取っつきにくい存在だったが、その圧倒的なパワーは感動的であり、大いなる魅力だったのである。
やがて、月日は流れ人々のパソコンやインターネットに対する知識も向上し、ネットという用語が一般化するにつれ、私たちのパソコンやインターネットに対する違和感や感動は、それに反比例するかのように低下していった。そうした現象を一方では「順応性が高い」と評価する面もあるのだろうが、今回の「ネット選挙」に関する人びとの認識のように、その「順応性の高さ」が禍し「パソコンやインターネットは万能」という誤った過信に繋がったと言えなくもないのである。
自動車の運転のように、初心者の頃はおっかなびっくり操作をしているのでそれ程の過ちは犯さないが、チョッと慣れた中級者の中に過信という心の隙ができて、それが大きな事故に結びつくということはよくある事例と聞く。
パソコンやインターネットを扱うデジタル社会にこのことを置き換えても、まったく同じことが言えるのではないだろうか。例えば、ネットからフリーソフトをダウンロードしてインストールする際に、いくつかのダイアログが表示されるが、初心者の頃は丁寧に一語一語その文章を読んでいたが、そうしたインストールの操作に慣れてくると、私たちは(私も含む)そうした注意書きを疎かにする傾向になってくる。「OK」や「はい}ボタンを反射的にクリックしてしまうことだ。
その結果、悪性のツールバーやアドインなど、極端にはウィルスまで自分のパソコンに取り込んでしまうのである。
但し、こうした被害以上に私が一番懸念することは、「ネットは万能」と言ったネットに対する安易な過信が私たち個人の潜在意識にもたらす影響である。つまり、現代社会はネットで検索すれば何でも分かるという一見便利な社会だが、その反面で私たちの思考能力はどんどん低下していくのではないかということである。考えることを疎かにする人間に果たして輝かしい未来はあるのだろうか。PCの漢字変換機能によって、私たちの漢字書き取り能力は低下していると言われて久しいが、それと同じことが私たちの「考える」という価値ある作業に多少なりとも影響を及ぼしていると考える方が自然であろう。
ネットと聞けば直ちに何でもできる世界と思い、その勝手な拡大解釈が前述の「ネットで投票ができるんでしょ」ということに結びついたのだろうが、確かに今のネットワークは技術的にはその能力は充分あるだろうが、行政面でそこまでは認めなかったというのが現実なのである。安易な思い込みが招いたミステイクなのだろうが、他人事とは言えない考えさせられる事例でもある。
インターネットの世界は私たちが想像する以上の圧倒的な情報で溢れているに違いない。その中には当然正しい情報もあれば、間違った情報も潜んでいる。そうした情報の存在を知り、差異を判断する力を持つことが、以前にもましてこれからの時代は求められるべき姿勢であり能力だろうと思う。
確かにパソコンやインターネットは便利である。その能力を活用して私たちの生活を便利に快適にすることは間違ったことではないと思う。しかし、そうしたものと上手に付き合っていくには、ある種の気構えと前述したようなある程度の努力を惜しんではいけない。
「ネット選挙とは?」という上記の事例に象徴されるように、ネットの表面的な付き合い方ではある種の危険を伴うこと、また、そのことが大きな問題へと発展しかねないということを充分理解する必要があるだろ。デジタルの世界は日進月歩である。それ故に現時点で、パソコンやインターネットができること、できないことの限界を知ることも重要な自己防衛策のひとつだと思う。
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