IN MY OPINION:「やがて悲しき博士号」 就職難に例外はない

今朝(2013年8月8日 木曜日)の朝日新聞社会面31面に「やがて悲しき博士号」という記事があった。それによると「この春に博士課程を修了した大学院生のうち、非正規雇用の身分で働くなど安定した職に就いていない人が40.1%に上った」ということで、この数値は前年比1.6ポイント増とのことである。

新聞紙上なので、そのことが良いことか悪いことかといった踏み込んだ見解は当然述べられていないが、「高学歴の博士たちが、就職難で苦しんでいる」という実態がいくつかの具体例を交えて報告されていた。

確かに、気の毒な話だというのが記事を読んでの最初の感想だが、高学歴でない人たちもまた同じように空前の就職難で苦しんでいることも、これまた純然とした事実ではないかとも思った。
今更、高学歴者だけを採り上げて問題視するのは的外れで時代遅れのように思えた。

また、この記事によれば、博士課程に進む学生は、20年間で2.5倍に膨らんだという。そうした増加現象は研究や産業技術の高度化に伴い、国が意図的に推し進めた政策の結果であるというが、その背景には長く続く不景気による就職難が大きく影響しているともいえるだろう。つまり、「それなりの優れた技術 や高度な資格を持っていれば就職には苦労しないだろう」という考え方が、「高学歴を目指さないと」という切迫した意識へと繋がったのだと思う。有事の際に安全地帯に逃げ込もうとする心理は人間誰しも同じだろうから。

新聞紙上で紹介されているように、高学歴者が身分不相応な職場で、身分不相応な賃金のもと働いているのは確かに納得いかないおかしな話だろう。しかし一方で、何十社へも履歴書を送り応募したにもかかわらず、書類選考の段階で振り落されている求職者も多いと聞く。彼らからすれば、贅沢な悩みで就職できているだけマシと思われても仕方ないことのように思える。こうした悲観的で当て擦り的な表現はあまり好きではないが、わが身も過去のある時期に多少なりとも同様の経験があったことを思うと、どうしてもそうした表現を避けることはできなかった。

今回の就職難の問題は、高学歴のレベルだけに止まらず、どんなレベルの人たちにとっても一応に厳しく、納得のいかない社会的不条理として私たちみんなに共通に投げかけられている。ただ、そうした矛盾だけを捉えて悲観しているだけでは、何一つ解決には至らないし、前進もないだろう。

「就職氷河期」などと呼ばれて久しいが、一向に改善の兆しは見られず、この雇用の問題は根が深いことを実感する。単に、景気回復、経済の安定だけの問題で解決できる程単純な問題ではなくなってきていると思う。定年制、年功序列制、終身雇用制、学歴偏重主義などのこれまでの制度・慣例を見直す中で、景気動向と照らし合わせながら総合的に検討し、社会全体を巻き込むくらいの大規模な制度改革が何よりも必要なのかもしれない。同時に、私たちが信じて疑わなかった職業、就職に対するこれまでの意識・概念を根底から覆すような私たち自身の意識改革も場合によっては必要だと思う。

当たり前のことだが、私たちの社会は高学歴の博士たちだけで成り立っている訳ではない。頭脳労働をする方もいれば、肉体労働をする方もいて初めて成り立っている社会である。例えが適切かどうか分からないが、米ネット通販大手アマゾンは創業者ジェフ・ベゾス氏の頭脳だけで成り立っている訳ではない。個別訪問をする多くの宅配業者の一人一人が末端の現場で汗水流しているから成り立っているという基本構造をないがしろにしてはならない。彼らの「配達」という地道な行動があってこそ巨大企業アマゾンも私たち顧客の生活も成り立っていることを決して忘れてはならないと思う。

今朝の新聞記事は、現在就職難で苦しんでいる人が多いが、その中でも高学歴の人たちでさえ職に溢れているという実態を恐らく強調したかったのだろうが、些か言葉足らずの感ありといったところだ。記事の内容からは、彼らは少なからず職に就けているし、就けていない人も高い理想を追っているから、現状はそのような境遇にあると読み取れなくもないのである。ある一定の求職者たちからすれば次元の違う話と思われても致し方ないところである。そのために、反感を持たれるケースも当然あり得るのだ。

こうした問題に触れていると、賃金格差の問題にも踏み込みたくなるが、今回はこの辺にしておきたい。機会があれば是非取り上げたいテーマのひとつである。

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