アラン・ドロンと映画について
わたしは幼少の頃から、映画が大好きだった。映画少年と呼べるほどではなかったけれど、それでも周りの友達よりは数多くの映画を観ていたと思う。
昭和30年代後半ごろ、うる覚えだがフジテレビで午後3時頃に「名画座」(?)という番組があって、ヨーロッパ映画を主に放送していた。「鉄道員」や「自転車泥棒」などの古典名作が放送され、外国映画を知ったのもこの番組だった。わたしがまだ小学生の頃の話だ。
そんな遠い昔のことを思い出したのは、さる8月19日のネットのニュースで俳優のアラン・ドロンが亡くなった事を知ったときだ。かつてのおぼろげだった「名画座」の記憶がそのとき甦った。
その名画座でドロンの代表作「太陽がいっぱい」を観たのかどうかは自信がないが、なぜか名画座と「太陽がいっぱい」がわたしの記憶の中で重なるのだった。
ドロンの代表作「太陽がいっぱい」 |
この作品は私が繰り返し観た映画のひとつだが、初めて観たとき(恐らく小学生の頃)はこの作品の登場人物の深層心理など、どこまで理解できていたことか。
全体のストーリーを含め、エンディングのあの有名なシーンが何を意味していたのか、果たしてあの頃の自分は理解できていたのか、いま思うと疑わしいところだ(笑)。
でも、この作品の衝撃的なエンディングとニーノ・ロータ作曲のタイトル曲の魅力が、
その後のわたしを映画少年へと導くことになる。
この作品以降、映画は「太陽がいっぱい」のように、観客を「アッ!」と言わせるようなエンディングが必ず用意されているのだと勝手に信じていた時期があった。
こうしたわたしの勝手な解釈(思い込み)は、その後観た映画では実際には無くて失望した。
その代わりに007シリーズでの粋なエンディングに感動し勇気づけられたことを覚えている。今は亡き映画評論家の水野晴郎さんの「いやァ!映画って本当にいいもんですね」の、あのオーバーな決め台詞がいまとなっては懐かしく素直に頷ける。
当時は理屈っぽく批判的だった自分も、最近ではめっぽう丸くなり、水戸黄門に代表されるワンパターンのエンディングがたまらなく恋しく思えるようになった。
所詮は自分も「日本のお茶の間で育った人間なんだな〜!」と尖っていた当時を自省。
ところで、いまの映画やドラマは正直何を言いたいのか理解に苦しむ作品が多いと思う。
単純明快な作品は時代遅れで低級といった安易な風潮があるのだろうか。
芸術全般で見受けられることだが、理解しにくい作品が評価される傾向は確かにあるようだ。わたし個人としてはそんな傾向には違和感だらけで、最近のドラマにはついて行けない。
題材、テーマも身近なものではなくて、異常、退廃な世界を扱っていて残忍なシーンが多く、見るに耐えない。
また、日本や韓国の作品で多く見かけるのが、主人公が喚いたり、叫んだりする場面だ。
現代人は昔の人に較べキレやすいと言うが、映画やドラマの中でも、そんな傾向が反映されている。
わたしはお金を出してまで、そんなシーンを見たいとは決して思わない。
Gerd AltmannによるPixabayからの画像 |
それに対し、古い作品は映像的には稚拙な面はあるが、緻密に計算されたストーリー展開と工夫があった。前述の1960年(日本公開は1965年)のルネ・クレマン監督の映画、「太陽がいっぱい」は格差社会、パワハラ、青年の野望そして愛を描いていて、当時もいまも変わることのない人間の普遍的深層心理を見事に描いていると思う。
最終の衝撃のシーンは、あくまでもそれまでのストーリー展開を覆す逆転サヨナラ満塁ホームランで見事だった。スクリーンに映されるあの沈黙のシーンを見つめ、視聴者はアッ!と驚き、それぞれがそれぞれに思いを巡らしたはずだ。
衝撃のシーンはあくまでも主人公の結末を暗示する手段のために使われたに過ぎない。
決してこの映画の目的ではないのだ。
結末のシーンまで映さず、見ている人に想像させるといった手法も「太陽がいっぱい」という作品が走りだったように思う。これまでの映画と一味違う斬新さがそこにはあった。
最近の過激なシーンが多い作品は、過激なシーン自体を描くのが目的のように思えてくる。
こうした点が、昔の名作と言われている映画との決定的な違いだとわたしは感じている。
ところで、ドロンの声優役でお馴染みの野沢那智さんが何の違和感なく、あまりにハマっていたのがいまではとても懐かしい。
意外だったのは、ドロンを担当した声優さんの中で野沢さんは後発だったこと。
目を閉じてアラン・ドロンの顔を思い浮かべても、野沢那智さん以外思いつかないのだが。
ちなみに、野沢さんのような個性派の声優さんが、いま時は見当たらないのも残念でならない。
嘗ては、大平透さん、若山弦蔵さん、山田康雄さん、小林修さんなど多彩だった。
MediamodifierによるPixabayからの画像 |
そして話をドロン本人に戻せば、アラン・ドロンこそ映画界で最も輝いた個性派俳優だったんだと改めて感じる。
言い古された表現で恐縮だが、やはりオーラがあり美男子で俳優の中の俳優だった。
当時、ご当地のフランスではジャン・ポール・ベルモンドと人気を二分していたようだが、日本では圧倒的にドロン派の方が多かった。
いま時の俳優はオーラとか個性と言った点で、アラン・ドロンをはじめとした60年代の俳優さんと較べると見劣りするが、それもいまと言う時代が敢えて求めていることなのかも知れない。
何の変哲もないと言ったら語弊があるが、現代という時代は街中で普通に見かける、極々一般的なキャラクターが日の目をみる時代なのだ(ある意味こうした傾向は良いことだと思うが)。
ただ、当時を振り返ると、ドロンとベルモンドの時代あたりから、わたしたち映画を観る側の嗜好は確かに超二枚目俳優から遠のいて行ったような気がする。
人気俳優さんは必ずしも超美男、美女とは限らなくなったのだ。
余談だが、わたしが大好きだったスティーブ・マックウィンもその範疇に入るのかもしれない。彼は2枚目俳優というよりも個性派俳優だったから。
何れにしても、アラン・ドロンを境に2枚目俳優の時代はひとまず終わりを告げたような気がする。
とは言うものの、アラン・ドロン自身の人気は、その後も相変わらず続いてゆくのだが、特に彼が親日家ということもあり、わが国での人気は絶大で根強かった。
「地下室のメロディー」「サムライ」「さらば友よ」「ボルサリーノ」などは名優との共演で立て続けにヒット、60年代彼の人気は全盛期を極めた。
そんな彼の人気作品の中でわたしが一番気に入っているのが、リノ・ヴァンチュラ、ジョアンナ・シムカスと共演した「冒険者たち」という作品だ。
これは未来に大きな野望を抱いた3人の男女が繰り広げる、愛とロマンと冒険のドラマだ。
珍しいことに、この映画でアラン・ドロンは振られ役を演じているという点でも異色作品だ。
映画「冒険者たち」 |
この作品はストーリーもさることながら、映像の美しさが際立つ。ネタバレになるかも知れないが、取り分け海底にゆっくりと沈みゆくレティシアがなんとも哀しくて美しい。
印象的なこのシーンは観るものすべてを「冒険者たち」という作品の中に引き摺り込むだけのインパクトがあった。
当時、そんな主人公の一人レティシアに対し愛惜の念を抱かずにはいられなかったのは、わたしだけではなかったはずだ・・・
ところで、この作品の舞台になった場所の一つに、フランスのラ・ロシェルの沖合にあるフォール・ボヤールという要塞がある。大西洋に浮かぶように聳えるこの要塞は、かのナポレオン1世がイギリス艦隊に対抗するために建設したとされている。
ratucetteによるPixabayからの画像 要塞 フォール・ボヤール |
高さ20mほどのこの要塞は元々あった島の上に建設されたものなのか、あるいは海底の土台含め一から建てられたものなのか、詳しいことは自分には分からないが、何にしても19世紀初頭に人間の手でこうした圧倒的な建造物が建てられたという事実が信じ難かった。
当時少年だったわたしは、学校の勉強では及ばない未知の領域(事柄、物、場所など)が、世界にはまだまだたくさんあるのだと、スクリーンに大きく映し出された楕円形をしたフォール・ボヤール要塞を観て痛感したものだ。
現代なら、ちょっとググれば、何でもわかる時代だが、かつては百科事典のページをパラパラめくらなければ、新しい発見はなかった時代。
この映画を観ていなかったら、わたしはフォール・ボヤールの存在を知らないままだっただろう。
当時、わたしにとって映画は、こうした新しい領域を教えてくれるもう一つの手段でもあったのだ。
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これまで、永遠の二枚目スターと言われてきたアラン・ドロン。
映画「太陽がいっぱい」では冷酷なまでの野心家トム・リプリーを演じ、「冒険者たち」ではレティシアを健気に愛する好青年マヌー・ボレリを演じたアラン・ドロン。
この相反する二つのキャラクターを俳優アラン・ドロンは見事に演じ、そして彼は栄光を勝ち取ったが、実生活のアラン・ドロンもまた、それぞれのキャラクターを演じ続けていたのかも知れない。
前述したように、数あるアラン・ドロンの作品の中で、わたしは「冒険者たち」が一番のお気に入りである。それはこの映画全体が夢と希望がテーマになっていて、映像とともに爽やかさに満ち溢れていたからだ。
あのリノ・ヴァンチュラでさえ純粋無垢な中年ローランの役で、いつもとは違う別キャラクターを爽やかに演じていたのが印象的だった。劇中の主人公3人はそれぞれの夢に向かって切磋琢磨するが、やがて挫折してしまう。しかし、彼らには若さ特有のギラギラ感はあっても、そこには一定の節度がありルールがあった。そして何よりも他人を思いやる優しい心があった。
時代遅れと言われるかも知れないが、こうした夢を追いかけ、未来に向かう前向きな映画は、観終わった後必ず、誰かにそのストーリーを話したくなるものだ。いまで言う情報交換・共有だ。
みんながクールで素っ気ない今の時代、そうした無邪気さが欲しいと切に思う。
映画って、かつてはそのような存在だった気がする。
そして、その一翼を担ったアラン・ドロンが亡くなり、また一つの時代が終わったのだと気付かされた。
当時、まだ青春真っ只中だったわたしは、自身の将来と重ねてこの映画を見たものだ。
当時の我が未来は、この映画「冒険者たち」のように大きく開けていたはずなのに、と今更思ってみても「覆水盆に返らず」のことわざの如し。
現実の荒波は厳しいのだと悟る、今日この頃だ。
教訓! 怠惰な生活に、決してラッキーは訪れない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
from JDA
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