伊勢ブラ

伊勢崎町商店街入口

かつて、伊勢ブラという言葉が横浜界隈で一世を風靡した時代があったとか。

伊勢ブラとは伊勢崎町商店街を優雅にショッピングしブラつくことだ。

東京の銀ブラに準えての造語だったのだろうが、当時の横浜の人には豊かさに対するひとつのステイタスだったにちがいない。
わたしたちの親の世代、つまり昭和初期の遠い昔の話だ。
しかしながら、わたしの幼少のころでもそうしたお決まりの習わしは残っていたし、わたし自身もかろうじて体験しているひとりだ。


松屋(?)、野沢屋、高島屋(規模は現在よりずっと小さかった)といったデパートが、伊勢崎町商店街入り口から連なり、その向かいには大型書店の有隣堂がドッシリと構えていた。
大型とはいえ5階建て程度のビルだったが、当時は本町通りを除けばそうした高いビルはあまりなかった時代だ。

有隣堂は今も健在だが、ほかのデパートは高島屋(横浜駅へ)以外、残念ながらいまに至っていない。
クリスマスのシーズンともなれば、横浜で一番華やいだ街だった。
当時は飾りつけも今よりズッと豪華だったし、クリスマスソングが次から次と商店街に響き渡っていた。


いまも健在、有隣堂本店


洋菓子とレストランの不二家での食事は、わたしたち子供にとっては年に1、2度のご褒美であり最高の贅沢だった。色とりどりのお菓子が詰まったサンタのブーツは、クリスマスプレゼントの定番で親にねだったものだ。

そんな風習は遠い昔のお話。今の若い人たちにとっては特別騒ぐようなことではないし、至ってクールなクリスマスのように思えるが、果たしてどうなのだろう。


Frauke RietherによるPixabayからの画像


このように不二家での食事がステイタスだったのは、当時の日本全体が貧しかったからで、外国から入ってきたケーキ、ドーナツ、アイスクリームそしてチョコレートなどすべてが物珍しく、貴重なものと思い込んでいたからだ。
実際、あの頃は日本のお菓子よりは数段美味し感じたものだ。

でも、現代の人たちにとって、洋菓子やレストランでの食事が年中行事の最大の楽しみと思えないのは、おそらく豊かさとか景気云々の問題だけではないような気がする。
確かに、いまはものが溢れ、豪華で洒落たレストランが周りにはいくつもある時代だから、特別なこととは思わないのは当たり前である。

恐らく、この理屈はスマホやPCやSNSなどの情報技術(製品)が生まれたときからあった、いわゆるZ世代の人たちが、ITの恩恵を特別視しない感覚と同じなのだと思う。家にある固定電話や公衆電話が、私たちの世代ではこの上なく便利で画期的に思えた。それは生まれた時に電話というものが身近にはなかったからだ。彼らにしてみればスマホもPCもSNSも、生まれた時には既に存在していたのだ。この差は大きいと思う。

情けないが、わたしたち古い人間にとって革新的なことが、彼らZ世代にとっては当然のことなのだ。
なので、ゆとり世代と言われたY世代(Z世代よりひとつ前の世代)あたりとの比較だったら、わたしたち昭和の人間とは豊かさの違いぐらいで認識の相違は解決がついたのかもしれない。


現在は仮店舗で営業中の不二家

かつて「新人類」なんて呼んだ新世代はいつ頃のことだったのだろう。
彼らの出現にも、かつての世代は驚嘆したものだが、そんなこともはるか昔のこと。
そう、月日が経つのはあまりに早く、わたしたちの意識や価値観は年々多様化し、どんどんアップグレードされていく。

贅沢を贅沢と思うか、それともまだまだと思うか、そんな感覚の相違がまさしくジェネレーションギャップなのだ。


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話を街の話題に戻そう。
上述したように、昭和、平成、令和と、この間たくさんの時間が流れ、人も社会も大きく変化した。

この間、わたしたちは仕事や子育てに追われ古い街を疎かにしてきたのかもしれないが、横浜駅周辺やみなとみらい地区ができ、誰もがこうした新しい街の魅力に期待し憧れ、そちらに向かったのだ。決して従来の街の価値が失われた訳ではないと思う。
そして取り残されていったのが伊勢崎町や馬車道商店街だったのだ。

結果としてそんな酷い選択をしたのだが、こうした流れはわたし自身も含め、多くの人たちがもつ好奇心という「人間の嵯峨」によるものだと思う。
そう考えると、誰も責めることはできないようにも思えてくる。

最近、わたしはそうした街の栄枯盛衰に何の意味があるのだろうと思うようになった。
何故なら、すべて、人生は「塞翁が馬」の喩えのように、何が幸か不幸かは、人生或いは物事、最後になってみなければわからないからだ。いっときの栄華も衰退も一寸先は闇、どう展開して行くかは誰にもわからない。

例えば、新しい生食パンの店ができれば行列ができるし、新たなドーナツの店がオープンすれば人々は長時間でも並ぶのである。そして、やがてその波は何事もなかったかのように引いてゆく。
この間、こうした事象を街で幾度となく見てきたが、栄華は儚く、ときに残酷だと思ってしまう。

要は、そうした事象を事前にわきまえておくこと、覚悟しておく事が大切なのだ。
そして、いつの時代も人間の動線は変化し、頼りないものだと思っていれば、落胆も少なく次のチャンスを待つことができるではないか。


フランスでは、フランス革命以後パサージュと呼ばれるガラス天井のアーケード通りがいくつもでき、人々で賑わったという。それも時代の移り変わりとともに、繁栄、衰退を繰り返したという話を何かの本で読んだが、どんなに堅牢に思えるものも、永遠に不動、不変ではいられないのだ。

それはいつの時代もどこの国でも同じこと。
だから、人生のときどきで一喜一憂することは無意味なのだと思う。
と、偉そうなことを言っている自分も、目先の些細なことにくよくよする毎日なのだが・・・


ガラス天井のあるパサージュの入口


現在の横浜駅周辺は通いなれた店も次々となくなり、好みの食事処も喫茶店も姿を消してしまった。若い人たちに受けるお店はたくさんあれど、オッサンが一息つける店はほとんどないに等しい。そのことは、現時点ではわたしにとっては逆風かもしれないが、ある人にとっては追い風かもしれない。そして時間の経過とともにその捉え方は、もしかすると逆転するかもしれない。焦ることはない、気長に待とう。
それは現状ではどう足掻いても致し方ないことなのだから。


繁華街は最近ではウィークデイでも人が溢れ、道ゆく人たちは何故かアクセクしている。(コロナ後は特にそう思える)
年寄りのマイペース、スローペースとは当然噛み合わない。オッサンがくつろげる場所はもはや横浜駅周辺にはないと又また実感する。
だから「用事が済んだらサッさと帰ろう」なんて、横浜に出かけた時はいつもそう思い、寂しい気持ちになってしまうのである。


Brian MerrillによるPixabayからの画像


わたしたちの年代になると、古臭い風習や古びた街並みが無性に懐かしく感じることがある。20代から30代、40代、50代とほとんど足を向けなくなっていた伊勢崎町や馬車道商店街。
学生のころ、あれほど通ったのに、いつの間にか遠のいてしまった街。

しかしながら、横浜の華やかさに憧れた自分が、また昔の地味な伊勢崎町や馬車道商店街を愛おしく思うようになり戻ってゆく。

そう!これなのだ。
いっとき良くても長続きしない。人それぞれ感じ方がちがう。人の心は移ろいやすい、特に日本人は(?)。誰しも否応なしに歳をとる。若者も、やがてはオッサン、オバサンになる。

こうした諸々の事柄こそ、動かし難い事実。ときは流れ歴史は繰り返し、人々の心は常に優柔不断である。
そして何よりも確かなことは、四半世紀もすれば、街は益々洗練され新しくなってゆくが、人間は劣化し、時代遅れになっていくという現実だ。
想像してほしい、自分が25歳、50歳、75歳になった時のことを。

誰を責めても致し方ない。
そう!残念だけどこの事実は受け入れるしかないのだ。


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何年か前に、数十年ぶりに伊勢崎町を訪れたときは、以前の古びた街並みの印象は拭えなかったが、逆に相変わらずの街の営みに感動すら覚えた。

メインストリートの店の顔ぶれは変わったけど、「有隣堂も不二家も元気に営業しているじゃないか」と。新しさもカッコ良さも相変わらずないけれど、この歳になると波長が合うというか、何故か落ち着くのだ、こうした街並みは。

進化し続ける横浜駅周辺は、洗練されたお洒落な店であふれている。
でも、それは今の自分にとっては何の意味もないし、そこに自分の居場所はないように思えてくる。そのことを強く感じさせてくれるのが伊勢崎町、馬車道辺りのスローな街の動きなのかもしれない。


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岩波文庫を初めて買ったのも有隣堂だし、文庫本ではない「新書」なる書籍を知ったのもここ有隣堂だ。
ちなみに、当時は新書というのは岩波と角川と中央公論社ぐらいしか出していなかった。
そのため本の数は限られていたが、それでも目新しい書籍に胸ワクワクだったものだ。


いまでは各出版社から出ている「新書」


ここでは図書館にいるようで1〜2時間は優に過ごせた。
見上げると吹き抜けがある一階のフロアーは、当時としては斬新だったのだろうが、今でも充分にカッコいい。

わたしが幼かった昭和30年代、40年代と較べれば、横浜駅周辺もみなとみらい地区も、そして伊勢崎町界隈も大きく様変わりした。移り気な人間は、新しい場所、話題の場所へとその関心を向けて行き、そしてその結果、街は大きく発展(?)する。

伊勢崎町界隈も横浜駅周辺もそうして大きくなっていったのだ。
わたしもその一端を担った一人だったに違いない。

それでも、心のどこかに懐かしさを感じて、久々に伊勢崎町界隈へ戻ってみると胸がいっぱいになった。
ここに来ると、いまは亡き両親のことや、中学、高校の頃のあどけなかった自分や友の顔が思い出される。それは何とも言えない気分だ。

古い音楽を聞くとその時代を思い出すように、古い街というのも当時のことを一瞬にして甦らせてくれる特効薬だと思う。街の存在感って、そんなところにもあるんだと感心する。

わたしは音楽を聴くのが好きなので、音楽業界で例えるならば、それは「たとえヒット曲は出せなくても、スタンダードナンバーを歌える歌手であってほしい」と言うことである。
「細く長く、人々に愛され親しまれる存在」と言う意味で。

時代に取り残された街並みも、なくならない限り、わたしのような時代に取り残されたオッサンが、再び懐かしさを求めて戻ってくることもあるだろう。

さて、また近いうちに「伊勢ブラ」といきますか・・・

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

<追伸>
はじめは、「伊勢崎町訪問記」程度でまとめようと思っていたのだが、書き始めると気持ちが熱くなり、毎度のことながらロングバージョンになってしまった。


from JDA




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