「小さな村の物語 イタリア」の番組から学ぶこと
昨今は新聞を見てもテレビのニュースを見ても、目につくのは人を騙し金儲けをする詐欺の話題ばかり。わが家にもそうした類の電話、パソコン・スマホにも怪しいメールが頻繁に届く。
その他、政治家の金の問題、企業の不正や改竄など、挙げればキリがない。
街に出れば、歩きスマホや暴走自転車、道の真ん中で何の臆面もなく立ち話をしている人たち、そんな光景に出くわす。こちらもある程度の緊張感と覚悟を持って歩かないと、思わぬトラブルに巻き込まれそうだ。
マナーや常識はどこへ行ってしまったのか。本当に情けない世の中になったものだ。
そんな中、わたしにとって心やすらぐことが一つある。「小さな村の物語 イタリア」というテレビ番組だ。
一昔前まで日本人の美徳だった誠実、実直、勤勉の神話が危うくなっている今、わたしたちに「忘れかけた何か」を教えてくれるのがこの番組だ。
今回はこの番組「小さな村の物語 イタリア」をご紹介しよう。
今更と思われる方もいるだろうが、色褪せないその魅力は特筆に値する。
番組「小さな村の物語 イタリア」との出会い
Stefan SchweihoferによるPixabayからの画像 |
実は、最近はほんとうにテレビを見なくなった。とは言っても連続ものや毎週欠かさず見ている番組が少なくなったということで、完全にシャットアウトということではない。
見なくなった主な理由は「番組が面白くない、マンネリ、コマーシャルが多い」である。
さらに、長時間番組が多く、各局の個性・ポリシーが感じられないなど。
そんな中、数少ないわたしの視聴番組で、いちばん好感を持っている番組がBS日テレの「小さな村の物語 イタリア」だ。
もう「小さな村の物語 イタリア」を見始めて何年になるだろうか。はっきり覚えていない。
そんなことでネットで調べてみたら、この番組は2007年10月から放送開始とあったので、流石にはじめから見ていたわけではないから、見始めたのは14、15年くらい前からになるだろうか。
思えばかなりの長寿番組だが、それは一度見れば頷けることだ。番組ではイタリアの有名観光地が出てくるわけではないし、ブランド品や有名レストランの紹介があるわけでもない。
そう、旅情報番組ではないのだ。
文字通りイタリアの小さな村の物語だ。そして、そんな番組がわたしたちの心を掴むのは、ナビゲーターの三上博史氏の番組冒頭に流れる定番ナレーション(下記参照)だ。「わたしたちが忘れてしまった「人生のすべてはそこにある」このフレーズに共感するからだ。
イタリアの小さな村 ここで命が生まれ 恋が芽生え
始まりも終わりも大地に包まれてきた
よく笑い よく食べ よく遊ぶ
わたしたちが忘れてしまった 素敵な物語
人生のすべては そこにある
マンネリを感じさせない番組の秘訣と魅力
17年近くになる番組でありながら、マンネリをわたしたちに感じさせない。それは番組製作陣の技量、センスそして努力などに依るものが大きいのだろが、これがまた不思議なのだ。
特別な趣向や凝った演出をする訳でもなく、どちらかと言えば”登場人物任せ”のところさえあるのに、それでいて、いつも新鮮に感じる。
わたしなりの勝手な分析だが、おそらく番組をマンネリ化させない秘策の一つは、敢えて新しい試みをしないことにあるのではと、思っている。
何の変哲もない彼らの日常と、肩肘貼らない登場する人たちの自然体に任せているところがいい。敢えてお決まりの質問を彼らに投げかけるのではなく、彼らのこれまでの人生を自由に語ってもらう趣向。その要望に自然体で答えてくれる村人たちもまた流石である。自分を語ることが苦手なわたしたち日本人には到底できない芸当だ。彼らは番組の中で、家族のこと、村のこと、仕事のことなどを生き生きと話す。そこから汲み取れるのは、彼らが自分のことだけを考えているのではないということだ。祖先あっての自分、家族あっての自分という意識、自覚がそこらかしこに感じ取れる。
Vasiliu GabrielによるPixabayからの画像 |
バールでエスプレッソを飲み、何かとくつろぐ時間が多い彼らだが、とにかく何事にも一生懸命である。彼らなりの人生哲学を持っているのだと思う。だから、いかなる時もよどみなく自信を持って自分を語れるのだろう。
これまでにいくつもの物語を拝見してきたが、全てに共通しているのが自分が生まれた村を愛しているということ。
とは言え日本と同じように、時代とともに村を出ていく若者はいる。
こうした村でも過疎化は徐々に進んでいるのだ。番組の主人公の中にも、一旦は都会の生活に憧れて村を出るが、後々、村に戻ってきたという経験を持つ人たちも多い。
Ivana TomáškováによるPixabayからの画像 |
三世代が同居している家族も多い。そして祖父の仕事を孫が継いでいるというケースも目立つ。核家族化が日本ほど極端に進んでいないのが幸いしてか、幼い頃からお祖父さんの仕事を見てきたのだろう。村で唯一の羊飼いや漁師、そして数少ない木工職人、修理工など、これまでに多くの職業の村人が登場したが、その多くが祖父からの作業場を受け継いでいるのだ。
大人が大人らしいこと
このように羨ましい限りの彼らの生活だが、なかでもわたしが一番感心するのが、チョッと変な表現だが「日常の中で大人が大人らしい」ということだ。
どこかの国の大人たちは「ウソ〜、マジ、やばい、メチャ云々」など若者言葉を恥じらいなく使っているが、番組に出てくる村の年配者にそうした人は見受けられない。彼ら年配者は若者のアイデンティティーは尊重しても、媚びることは決してない。某国の場合、年配者は流行に取り残されまいと必死なのか、少しでも若者ぶりたいのか、若者(言葉)に感化されている。その辺りの真理はわたしには理解できない。国全体がそんな感じで、影響を与えるべき人が、影響されているのだから情けない。
本来、大人は子供や若者のお手本でなくてはいけない。このことは誰がなんと言おうと、人間も動物も昔から延々と繰り返してきた真理だ。そうして歴史は創られてきたし、文化や伝統は絶えることなく継承されてきたはずだ。
こうした責任感が希薄になってきたのは、自由や民主主義を履き違えたことによる弊害なのかも知れない。
生食パンの店がオープンすれば直ちに行列ができ、何かの食材が体に良いとテレビで放送されればスーパーの陳列棚が空になるなど。
更には、その群がった人たちはやがて引き潮のようにサーッと引いて、気がつくとその店は別の店に代わっている。ブームの終焉である。この国で同じ残酷な光景を何度見てきたことか。
ご存知の方も居られるだろうが、はるか昔、有名ブランドが異常にもてはやされた時代があり、数万円、数十万円もする高価なバックや財布が飛ぶように売れた時代。しかし、あの頃その中心にいたのは当時の若者で、大人と呼べる年配者では無かった。(お金を出したのは年配者かも知れないが)
ところが、現代の「何かに群がる」という現象の中心にいるのは、大人(高齢者含めた)と呼べる年齢層の人たちだ。
DeeによるPixabayからの画像 |
安易な見方かも知れないが、こうした稚拙な行為は彼らイタリアの村人には皆無な気がする。彼らの生活では、地道に生きること、そしていつものようにその店で必要なものだけ買えれば満足という「腹八分目」の精神が根付いているのだ。それが彼らにとっての幸福なのだ。
個性個性と言っておきながら、ブームやトレンドに乗っかっていないと安心できないようなヤワな人たちではないのだ。
新規開店だからと早々にその店に押しかけなくても、地道に定期的にショッピングすればいいのだと思う。その方が店にとってもありがたいのだと彼らは思っている。わたしも同感だ。
特売品のみを買い漁るのではなくて、定価品もほどほどに購入する。こうすれば店も顧客もお互い助かる。その結果、両者は長くその地域で共存できる。こんな考え方が「小さな村の物語 イタリア」に出てくる村人には定着しているのだろう。
余談だが、イタリアをはじめヨーロッパの国々で有名ブランドの店がいまも健在なのは、彼らヨーロッパの人たちにとってブランド品を買うことはブームの一環として勝っている訳ではないからだとわたしは思う。見栄やライバル意識ではなく、本当に必要な時、必要なオシャレのために買っている。
だから、シャネルやルイ・ヴィトンなどの店は長続きしているのだ。これはこれまで話してきた「小さな村の物語 イタリア」の村人の生き方と共通しているからだ思う。
保守と革新
そんな彼らの生き方に対し「保守的」という言葉を当てはめる人がいる。それは一般的な考え方で、これはイタリアに限らず、ヨーロッパ全体を保守的とみる傾向もある。そしてこの「保守的」という言葉のニュアンスはどちらかと言えば、褒め言葉ではない。
イノベーション、リノベーション、エボルーションなど似通った横文字が盛んに飛び交っている昨今だが、果たしてわたしたち人類にとってこれ以上の進化、革新は必要なのだろうか。この番組を見ていると、つくづくそう感じてしまう。
保守も革新も両極端はよくない。何事も程々がいいのだ。
簡単な例を挙げれば、わたし自身は「トマトは夏に食べられればいいし、リンゴは冬に食べられればいい」と思っている古い考えの人間だ。「品種改良してまで季節外れの野菜や果物を食べたいとは思わないが、リンゴは甘い方がいいかな」程度はいいと思う。これからもできるだけ自然と寄り添う生き方をしたいと思っている。
「小さな村の物語 イタリア」はわたしの生きるお手本
7、8年ほど前にある日帰りバス旅行に参加したことがあった。わたしたちの座席は運転席から数列後の比較的前の席だった。途中、数列後ろの席から何やら喧しい会話が聞こえてきた。
どうやら「小さな村の物語 イタリア」の番組についてワイワイガヤガヤと盛り上がっているのだった。
番組の内容、テーマソングがいいの、三上博史のナレーションがいいのと概ね褒め称えていたのだが、番組を見ていてそう思うのなら、「あなたたちも少しは実践しましょう!」と言いたかった。
いまの世の中、素晴らしい内容の映画もあるし、優れた小説もあるだろうが、その素晴らしいと感じたことが、その瞬間だけに止まっているように思えてならない。感動の気持ちが自身の生活に生かされていないような気がする。「これはコレ、あれはアレ」とクールに割り切られているようだ。
愚木混株 Cdd20によるPixabayからの画像 |
物がふんだんに無かった時代、情報が満遍なく行き渡らなかった時代、わたしたちは幸運にも手にすることができた物、あるいは知り得た情報(知識)を無駄にしなかった。もっと有効活用しいたように思うのだが・・・。
そんな訳で、「小さな村の物語 イタリア」はわたしの人生のお手本であり、共感できることは実生活に活かしていきたいと思っている。
人生、いかに生きるべきか?モノの見方、価値観などこの番組を見て大きく変わったように思う。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
JDA
<追記>
- 当時「小さな村の物語 イタリア」を見て「今でもこんな番組、放送してるんだ」と先ず感心した。
そして、その番組が長寿番組になっていることにも感激だった。昨今、スマホ、PC、ゲームなどでテレビ離れが進んでいるとはいえ、テレビの存在そしてその影響力は依然として大きいと思う。お笑い芸人や食レポ(あまり使いたくないが)ばかりが各局で蔓延している昨今、テレビ局はその影響力を充分に意識していただき、責任ある立場で個性ある番組コンテンツの制作に携わっていただきたいと思う。
単なるブロガーが生意気とは思いましたが、かつてテレビが大好きだった一人の人間として書かせていただきました。
ナレーターの三上博史氏のこと
かつて、わたしは「有名俳優、タレントがナレーションをすることについて」という投稿をしています。その中で、わたしは有名俳優、タレントがナレーション分野に切り込むことに対し、あまり好意的に書いていません。それは今も同様ですが、しかしながら、この番組の穏やかな三上氏のナレーションについては、当時の石丸謙二郎氏と同様に好感を持っています。興味のある方は下記URLでご覧になってください。
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