小澤征爾さん、そしてあの時代に想いを馳せる



今年(2024年)2月6日に指揮者の小澤征爾さんが心不全で亡くなられた。

心からのご冥福をお祈りいたします。

月並みですが、これまでの小澤さんの功績に対し敬意と感謝、

そしてクラシック音楽を愛した一人として、僭越ながらこの投稿の場で

小澤さんへの想いとあの時代のことを語らせていただきたいと思います。


まず、語るにあたり小澤さんの敬称をにするか迷いましたが、親しみを込めたさんにしました。

それは小澤さんの人柄に相応しいと思ったからです。

それに合わせ、今回は筆者も”ボク”とさせていただきました。


ボクにとっての偉大な人とは?


一般に、偉大な人というのは「その人がどんな業績を残したか」に注目されがちですが、もちろんそのことは重要ですが、その人が如何に生き、人々にどれほどの影響を与えたかも忘れてはいけない要素だと思っています。

その意味で、小澤さんはボクにとっても極めて偉大な人のひとりであるかをこれからお話しします。


成功は必然そのもの


さて、小澤さんの訃報を私たちが知るのは、亡くなられてから数日経ってのことでした。

こんなことを書くと不謹慎と思われるかも知れませんが、ここ1、2年はボクの中では少なからず小澤さんのことを気にかけていました。

ご承知の通り2000年以降、指揮者の職業病とも言える腰痛や、体調の衰えとともに幾つかの病との戦いが続いていたからです。車椅子の小澤さんもボクとしては信じられない光景でした。

若くして欧米の地で小澤さんの指揮が認められ、日本に凱旋した頃の溌剌としたかつての姿とその時代を思い起こすと、自分を含め「経年」の冷酷さと年月の儚さを痛感せざるを得ませんでした。


宇宙の歴史を思えば、人間の一生なんてほんの一瞬でゼロのようなものでしょうが、人生後半に至るとぼくを含め誰しも1日が長くあって欲しいと思うはずです。

秒針の動きがヤケに速く思えるのはその所為でしょうか。

しかしいくら悪足掻きをしても、所詮ボクのような凡人は何の成果もなく、歴史の闇に跡形もなく消えてゆくのでしょう。


幸い、小澤さんは努力と情熱の人だから、クラシックの歴史に輝かしい1ページを刻むことができました。

いや、”幸い”は正しい表現ではありませんね。

努力と情熱をもって成し得たことは、単なるラッキー(幸い)や偶然ではなく、目指し勝ち取った成功なので、「必然の賜物」と言えるでしょう。

世界の偉大なマエストロのひとりとしてこれからも語り継がれていくのです。


PexelsによるPixabayからの画像


N響事件のこと


思うにこれはまったくの私見ですが、小澤さんを努力の人にしたのは、あの「N響事件」ではないかと思うことがあります。

クラシック音楽に多少なりとも造詣のある方なら、ご存知の「N響(ボイコット)事件」です。

幸か不幸か、あの事件を契機に小澤さんは日本を離れ、欧米を活動の場とし今日の名声を得たのですが、一方でそれは「アクシデントによる結果オーライ」だったと捉える見方があります。

「”世界の小澤”はあの事件がなければ誕生してなかったのでは?」などと囁かれたり物の本ではよく見かけるフレーズです。


しかし、ボクはそうは思いません。

人生の分かれ道とは、ふたつあるいは複数の道がどんどん離れて行くのではなく、途中彷徨った時間があったとしても、元の道と交わることもあり得ると思うからです。

人生の岐路にたったとき、その判断を誤っても、次の分かれ道で軌道修正が可能なのではということです。


LEEROY AgencyによるPixabayからの画像



それを可能にするのは、本人の努力や情熱そして思慮深さではないかと思います。

要は、早いか遅いかの違いで、人生はいくらでもやり直せると信じたいです。

その意味で、小澤さんは「N響事件」がなかったとしても”世界の小澤”になったのだとボクは信じます。



Miguel Á. PadriñánによるPixabayからの画像


遠い昔、あの時代のこと


ところで、ボクが件の「N響事件」を知ったのは、1962年のリアルタイムから何年も経ってからです。

当時はぼくも幼かったし、あの時代は今ほど情報化されていなかったから、クラシック音楽界のことなど、”お茶の間”のニュースとして取り上げてもらえなかったのでしょう。小学生のボクなどは知る由もなかったのです。


それでも、ボクはクラシック音楽はその頃から好きだったので、テレビやラジオでよく聴いていました。でも、「N響事件」のような深い事情は一般化していません。

当然、小澤さんのことは知っていたし、先輩格の岩城宏之氏のことも小澤さん以上にテレビで見ていました。

でも、正直なところ「世界で活躍する小澤征爾、かたやN響(日本)の指揮者 岩城宏之」程度の認識で、漠然と小澤さんの方が格が上で、憧れの存在も小澤さんでした。

あの時代、”海外”というフレーズは水戸黄門の”印籠”に匹敵するほどの権威があったんですね(岩城さん失礼しました)。


当時の日本と言えば、まだ米軍が駐留していたし、敗戦の影がどことなく漂っていました。

「アメリカをはじめ先進国に追いつけ、追い越せ」というポジティブな気運と劣等感というネガティブが同居しているような時代でしたから、海外に対する羨望の眼差しは誰しも持っていたはずです。

ぼくが育った横浜は特に米軍ハウスがあり、芝生が引き詰められた彼らの広い住宅は、日本の住宅とは較べものにならないほどで、金網越しに見る彼らの生活は別世界で、テレビで見るホームドラマそのものでした。


そんな劣等感の塊と安易な思いから、世界を股にかけて活躍する「小澤さんの方が格が上」というランク付けは極めて安易な判断としてなされたのでしょう。

当時はそうしたことに対して「何クソっ!海外が何だ!」と抗う反骨精神は一部にはあったのでしょうが、ボクの周りではなかったように思います。

兎にも角にも、海外、特に米国は只々憧れだったのです。


WikiImagesによるPixabayからの画像


ボクにとってのクラシックとジャズ


そんな訳で、ぼくはクラシック音楽には小学校の高学年頃から興味をもち、交響曲などの長い曲も苦にせず、ジッと聴いている変な小学生でした。

中学に入る頃からは小遣いをためLPレコードを買いはじめました。

記念すべきファーストアルバムはブルーノ・ワルター指揮のベートーヴェンの第5番「運命」とシューベルトの「未完成」のカップリング。超長時間録音と銘打った日本コロンビアから発売されたものです。見開きジャケットの片隅に小さく③66.3とあるので1966年3月発売だったようです。

ちなみに、ライナーノーツは音楽学者(評論家)の大宮真琴氏が書いています。

懐かしいです。


当時の価格で2,000円なので、中学生にとってはかなりの買い物でした。

この頃は一枚が貴重でしたから、何度も何度もかけていましたね。

酷使のお陰(?)で、音飛びもあり盤の状態は極めて悲惨で、現在では聴くに耐えない状況です。


ブルーノ・ワルター指揮のベートーヴェンの第5番「運命」
オケはコロンビア交響楽団 ジャケット表面

ジャケット裏面




また、昨年廃刊もしくは休刊(?)になった雑誌「レコード芸術」も毎月ではないですがほどほど買っていました。A5サイズの300ページほどの比較的厚い雑誌でしたが、愛読しました。

高校時代はレコード鑑賞部にも入り、部室(といっても音楽室でしたが)にあったレコードを放課後聴きまくりました。

そんな音楽少年だった自分も、大学、就職を境にクラシック音楽から遠ざかった時期がありました。


ジャズに再び興味を持ったからです。自宅でジャズをかけていると、大学時代によく通ったジャズ喫茶での時間が懐かしく思い出されました。社会人として仕事や人間関係に疲れた時、癒してくれるのはクラシック音楽よりもジャズだったんです。

その上、サラリーマンにとって交響曲や協奏曲を聴くおよそ1時間は貴重だったし、正直しんどかったです。クラシックCDも次第に買わなくなっていきました。


クラシック音楽との再会


そんな矢先、仕事である工務店を訪問する機会がありました。

そこのご主人と雑談ができるほどになったころ、そのご主人が何気に「少し前にオレは小澤征爾の邸宅を建てたんだ」と自慢気に話はじめたことがあり、思わぬところで珍しい話を聞くことができたのです。

直接小澤さんに会えた訳ではなかったのですが、当時のぼくはその話題に胸躍りました。

あれはひとつのターニングポイントだったことは確かです。

ぼくがその工務店を訪問していたのが1984年から85年ころのことでしたから、小澤さんはボストン交響楽団、ウィーン・フィル、そしてベルリン・フィルなど世界の主要オーケストラから招かれ、精力的に活動していたころです。

恩師の斎藤秀雄を讃え開かれた没後10年のメモリアルコンサートを機に、例のサイトウ・キネン・オーケストラを結成するのもこの時期で、いま思えば小澤さんの絶頂期だったのかも知れません。



SamMinoによるPixabayからの画像


そんな小澤さんの活躍を知り、海外を目指し、そして成功を勝ち得た小澤さんの活躍は大いに刺激になりました。それまで忘れかけていたものを呼び戻してくれたような、そんなポジティブな気持ちにさせてもらえたのです。


かつては自分にも希望に溢れた時代があったはずです。

だが、今の自分は極めて現実的、消極的、いわゆる”若年寄り”そのものだと思いました。

そんな当時のボクに「挑戦し続けること」、「追求し続けること」の価値とクラシック音楽の素晴らしさを再認識させてくれたのは、小澤さん絡みのそんな些細な出来事からだったのです。


生涯にわたり小澤さんが追い求めたもの


小澤さんが生涯を通して追い求めたのは「東洋(日本)人は西洋音楽を理解できるか」という単純にして奥深い疑問だったのです。

言ってみれば、味噌汁の味とともに育ち、日本という閉鎖的な国で培われた日本人の感性では、スープ味の西洋音楽の本質を理解するのは不可能ではないかという考え方からの出発です。


海外に活動拠点を持ったのもその探究のためで、前述の「N響事件」もそのきっかけのひとつになったのですが、ある意味小澤さんは日本人として十字架を背負ったのだとボクは思っています。

自身が最も愛している音楽を信じ、殉教の旅を決意したのでしょう。


調べてみると「N響事件」はいろいろな解釈があります。

桐朋学園と東京芸大、ベテランと若手、海外と日本、そして人間の栄光と嫉妬心などなど、複雑に絡んだ相反するものとの軋轢だったのでしょう。


ただボク自身がこの事件で最も注目するのが、浅利慶太、武満徹、大江健三郎、曽野綾子、谷川俊太郎、團伊玖磨、そして三島由紀夫など当時の各界著名人が小澤さんのバックアップについたことです。若輩の小澤さんにとっては勇気づけられたことでしょう。

それほどにあの時代、小澤さんは日本にとっても注目の新人であり、期待されていたのだと思います。

ボクの言葉が適切かどうかわかりませんが、小澤さん自身も、”若気の至り”的な自省を後々語っているのも、その現れかも知れません。

それ故に、敢えて難問である「東洋(日本)人は西洋音楽を理解できるか」を一生をかけた命題としたのだとボクは推察しています。

小澤征爾さん、本当にご苦労様でした。


最後までお読みいただきありがとうございました。


<追記>

小澤さんの訃報を知った夜、ボクはそれまで封をきっていなかった小澤さんのCD

(ベートーヴェン作曲 交響曲第5番 ハ短調 作品67「運命」)を追悼の意を込めてひとりじっくりと聴いてみました。




1968年8月の録音、オーケストラはシカゴ交響楽団です。

CDジャケットは若々しい小澤さんの顔のアップ。

この頃、まさに”世界の小澤”に邁進し精力的に活動している時期だったはずですが、何故かその表情は俯き加減で気になるところです。

思えば「N響事件」から6年ほど経っての録音です。


*「N響事件」については中川右介著の「至高の十代指揮者」に詳しく書かれていますので、興味のある方はお読みいただければと思います。



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