「最後の授業」というお話を知っていますか?

 「最後の授業」というお話を知っていますか?


これまで定説とされてきたことが、突然疑わしきこととして覆ることが世の中にはたくさんあります。

わたしの世代の身近な例としては、「ウサギっ跳び」「運動中の飲水」「野球部の水泳」などの定説が語り継がれていました。


例えば「ウサギっ跳び」は肉体と根性を鍛えるという目的から、部活のなかで先輩から後輩へ強いられていました。

また、「運動中の飲水」も同じような理由から、持久走などでどんなに苦しくても水を飲んではいけないと禁止されていました。

「野球部の水泳」は前のふたつとは意味合いが違いますが、選手の肩によくないという理由で、かつては野球選手はプールや海に入れない時代がありました。

こうした例は今では完全に考え方が逆転し、「ウサギっ跳び」については禁止され、あとのふたつは逆に奨励されているほどです。


これからわたしがお話しするのは、冒頭の例とは幾分ニュアンスは異なりますが、本質的には変わらない定説の逆転です。

取り上げるのはフランスの作家ドーデの「最後の授業」という作品の扱いです。


Alexas_FotosによるPixabayからの画像

ひとつの作品の時代背景をどう見るかあるいは作品自体の解釈如何で、その作品の価値、評価がまったく異なってしまうという典型的な例だと思います。


まずここでストーリーをご存じない人のために「最後の授業」の時代背景とあらすじを簡単に紹介しておきましょう。


これはアルフォンス・ドーデの短編小説集「月曜物語」の一編で、フランスの新聞に1871年から連載されたものを1873年に一冊の書籍として出版したものです。

舞台は普仏戦争(1870年から1871年)が終戦を迎えて間もないころのフランス。

プロイセン(統一ドイツ前)に敗れたフランスのアルザス=ロレーヌ地方では、占領軍の支配下で、母国語であるフランス語をその日から話すことも教えることもできなくなってしまいます。

話せるのはドイツ語だけです。

その日は町の偉い人たちも教室に集まり、自分たちのフランス語がなんと美しい言葉であるかを確かめるかのように、熱心に涙して教科書を読んでいました。

そう、この日はフランス語を教えることができる最後の授業の日だったのです。

日頃フランス語の授業を怠けていた主人公フランツ少年は、そのことを知り深い後悔の念にかられます。

戦争がもたらす悲惨さと不条理に対する人々の深層心理を、学校の教室を舞台にして見事に描いています。


この「最後の授業」の話が、何年生のときだったかは忘れましたが、わたしが小学生のときの国語の教科書に載っていたのです。

当然、小学生用ですから原文そのままではなくて、おそらく分かり易い表現で内容もアレンジされていたのだと思います。

授業で習って以来わたしはこの「最後の授業」の大ファンになりました。

昭和30年代の遥か昔のことです。




実は最近までわたしは、この「最後の授業」の話は、今も小学校の教材として使われているとばかり思っていたのですが、残念ながら現在は採用されていないことを知りました。

以前子どもや孫に聞いても、「そんなの知らない!」と相手にされなかったことが、いまになってようやくわかった次第です。


詳しく調べてみると、1985年(昭和60年)から既に採用されていなかったとのこと。

この事実を知ったわたしの感想は、単純に「何故?」でした。


戦争がもたらす悲劇、そして何気ない日常に潜む落とし穴に対する警鐘がこの作品の主たるメッセージだとこれまで思っていました。

戦争に負けたら母国語を話せなくなってしまう、だから戦争は二度としてはいけない。

怠惰な生活をしていると、いつかそれが自分の身にふりかかってくる、だから一日一日を大切にしなければいけないんだ。

と、この二つがこの作品の最大のテーマだと信じていたのです。

そして、いまの世の中でも通用する内容で、今こそこの作品が求められるべきだと個人的には思っていました。

ですから、教科書に載っていないと聞いたときは、とても悲しく残念でした。



なかでも、この作品の中に、わたしが大好きなアメル先生の印象的な言葉があるので紹介します。

フランス語の教科書がまともに読めないフランツ少年に対して、

「フランツ、わたしはもう君を叱りはしない。わたしたちみんなが君と同じことを今日までしてきたのだから。明日、明日と、やるべき事を先延ばしにして来たのです。しかしながら、明日という日が、ある日突然なくなってしまう事がこの世の中にはあるんだということを忘れてはいけません。」と。


当時、この言葉はわたしの中に強烈に突き刺さってきました。何よりもそのときの自分に当てはまり、よく理解できたからです。

あまりに衝撃的で、ある意味カッコよささえ感じたフレーズです。

その後、この教えを忘れることなく自分のポリシー、戒め、今風に言ったらライフワークにしてきたのですが、際立った成果はいまだないようです(笑)。


Jo-BによるPixabayからの画像



さて、わたし自身このようにドーデの「最後の授業」を理解していた訳ですが、実のところ作者の意図、作品の背景には、わたしが思っていたような純粋な考え方やセンチメンタリズムとは別の、もっと血生臭い政治的思惑があったようです。

当時わたしたちがこの教材で学んだ時代は、普仏戦争の戦勝国ドイツが敗戦国フランスに対して、一方的にドイツ語を押し付けているとの捉え方が一般的でした。

ところが冒頭で触れたように、ときが経ち、歴史の研究が進む中でそれまで正しいとされてきた定説が見直されたのです。この「最後の授業」もそのひとつだったのでしょう。


例えば、アルザス地方を考えたとき、この地は長い歴史の中で民族的、言語的に紆余曲折を強いられ、住民のほとんどはドイツ語の方言である「アルザス語」を話し、フランス語はむしろ外国語的位置づけだったということが最近の研究で明らかになっているそうです。
言われてみれば、それは作中の「国語の授業でフランス語を習っている」という文面からも推察できます。

そうなると、作中のアメル先生は本来アルザス語を話すアルザス人に対しフランス語を強要、乃至は強要を手助けしている立場の人物だったと考えられ、こうした点が問題になったのかもしれません。

Wikipediaによると「国語 イデオロギーによって言語的多様性を否定する側面を持つ政治的作品であるとの批判もあった」とあります。 

「最後の授業」(2020年8月23日 (日) 10:54 UTC版)フリー百科事典 ウィキペディア)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%8E%88%E6%A5%AD





視点を変えることによって、歴史上の人物が善人(正義)になったり悪人(悪)になったりとはよくあることです。

この「最後の授業」も同様に、作品の評価が二転三転を繰り返したのです。

ときの日本政府(当時は文部省?)が教科書への採用、不採用を繰り返したのも、そんな流動的な評価と連動していたからでしょう。

現在も、我が国のいわゆる教科書問題(特に歴史)に関しては、諸外国からの圧力や専門家の見解の相違などから、自国だけの問題として捉えられずいまだ流動的です。

この「最後の授業」の評価についても教科書問題同様に根が深いようです。

 

Ed ZilchによるPixabayからの画像

ただ、この作品がこのように政治的側面を持っていたとしても、作中のアメル先生のあの言葉は、わたし自身を勇気づけてくれたことに変わりはありません。

文学作品がわたしたち読み手に訴えかけるものは様々です。

それは、文学に限らず、芸術作品全般に言えることだと思います。

作品に対するわたしたち読者、鑑賞者の受け取り方が様々なように。


フランスの作家ドーデのこの「最後の授業」という短編作品が、作者の意図、そして作品の背景にあるものが何であれ、「どう読んだか」はわたしたち読者(受け取り手)に委ねられているのです。「この本はこのように読みなさい」と押し付けられるべきではないのです。

ですから、作品を意図的に封印する(多少大袈裟なら隠す位が適当か)ような行為は本来あってはならないことだと思います。

作品にまつわる歴史的事実の研究は専門家に任せておけばよいのです。
そして、さらに深読みしたい人が専門家の研究成果を参考にして、その作品が自身にとって必要かどうかを判断すればよいのだと思います。

大切なのはわたしたちに沢山の選択肢があるかなのです。


最後まで読んでいただきありがとうございました。



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