本の紹介:「フェルメールの音 音楽の彼方にあるものに」 梅津 時比古 著 東京書籍

第1刷発行が2002年1月17日だから、早いもので発売からもう10年以上が経ってしまった。
発売当初からこの本の存在は知っていたが、フェルメールブームの便乗商品ぐらいとしか思っていなかったため、購入することはなかった。内容的にも表題作の「フェルメールの音」という2頁の短い一遍のコラム以外はフェルメールには直接触れていなかったからだ。

厚めのパラフィン紙でカバーされているため、
フェルメールの絵がおぼろげに見える。

それがどうしてこの場で紹介する運びになったかというと、日頃通っている神奈川県立図書館で先日偶然にもこの書籍を見掛けたからである。

装丁は比較的きれいだったため、この間不人気であまり貸出がされていないのかと安易な判断をしていたところ、ハードカバーを捲り目次のあたりにくると綴じ目のあたりが脆くなっているのがわかった。図書館の本の扱い、マナーが良くないといった昨今の問題は今回はさて置き、多くの人に愛読された痕跡を発見し、嬉しやら悲しいやら情けないやらとあの時は複雑な心境であった。

本書は毎日新聞の夕刊に約4年間にわたり連載されたコラム「クラシックふぁんたじい」をまとめたものとのこと。一遍一遍が独立したコラムになっているため、興味のあるタイトルを拾い読みしても良いし、最初から連続して読んでいっても構わない。

この一冊では、著者のクラシック音楽の博識ぶりは勿論のことだが、他の芸術にはない、目に見えず尚且つ瞬間的に消えてしまう「音」というものを扱う音楽の手強さ、困難さ、そして音の神秘性と魅力をこうした一遍一遍から読み取ることができる。そして何よりも感心したのは著者が絶えず自然と対峙しながら音を意識していることで、その感受性と想像力の豊かさは尋常ではない。著者の四季折々に出会う音の背景には常に自然があり、自然にはいつも音が存在する。その音を愛おしむ気持ちが「音楽の彼方にあるものに」という副題に込められているように感じた。本来は副題が主タイトルだったのかも知れない。

実は、連載コラムを一冊の本にまとめるに当たり、著者や出版社には冒頭に触れたようなコマーシャル的戦略が当初はあったのかも知れないが、読み終えてみるとそんな手段を用いなくても充分通用する中身の濃い優れた作品であることがわかる。何事に於いても、中味のない作品をオーバーに宣伝されることは迷惑だが、こうした地味ではあるが素晴らしい作品を多くの人たちの目に触れるように多少戦略的にアピールすることは必要悪なことではないかと思った。

どうしてこうした永久保存版的作品を購入しないで、読み終えたら即「BOOK OFF」行きのような書籍をいつも買ってしまうのか。今一度自分自身の書籍購入術を見直す必要があると痛感した一冊である。

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