スタンダード・ナンバー
音楽の世界ではスタンダードと云えば
スタンダード・ナンバー(standard number)のことを指す。
果たして、スタンダード・ナンバーと呼べる曲はどのくらいあるのだろうか。
「慕情」「煙が目にしみる」「ムーンリバー」「エデンの東」など挙げれば限がない。
「ポピュラー音楽で、長年にわたり、多くの演奏家や歌手に
とりあげられてきた曲」(小学館「例文で読むカタカナ語の辞典」より)
と辞書にあるが、
グラミーを受賞したとか、アルバムセールス何万枚以上といった基準も、
所謂、選定委員会的な組織によって認定されるものでもないため、ある意味アバウトな世界である。
そう考えると、スタンダード・ナンバーかどうかの判断は主観的要素が強く関係しているように思える。
だが、定評あるスタンダードの個々の作品を見てみると、ひとつひとつは長い年月をかけ、広い地域で客観的に認められていった名曲ばかりである。
始まりは個々の主観でも、多くの人たちの賛同と情熱と評価によって多大な客観性を帯びていったのだろう。
世界中の多くのアーチストが原曲に敬意を払いながら、
独自の解釈とアレンジを施し表現された演奏は、
更なる魅力をその曲に吹き込み、上書きされ、より多くの人たちに親しまれるようになっていく。
多くの時間を掛けてのその繰り返しが、その曲のステイタスを維持拡大し、確固としたスタンダードへと導いていったのだ。
1950年から60年代、わたしが幼少の頃、
欧米からたくさんの新しい音楽が日本に入ってきた。
それらは洋楽と呼ばれ、聞き慣れないアーチスト名、グループ名そしてミュージックジャンルが次々と紹介されていった。
当時は、演歌、歌謡曲と二分するほどの勢いがあり、連日ラジオから流れていたように記憶する。
その中には、以前から既にスタンダードと呼ばれていた曲もあったが、
その当時としては全くの新曲もたくさんあった。
そうした新曲の中の何曲かが歌い継がれ、演奏され続けて現在に至り、スタンダードとしての称号を得てきたのである。
ビートルズの「イエスタディー」はそうした代表曲のひとつだろう。
こうして考えると、幸運にも私たち世代は、現在スタンダードとして位置付けられている楽曲のまったくのオリジナル版、
言い換えれば原曲をリアルタイムで経験できたということだ。
ところで、音楽にはメロディー(旋律)、ハーモニー(和声)、リズム(拍子)という要素があり、
この三つを「音楽の三大要素」と云うことは誰もが知っている。
このわたしが幼少の時代、音楽はメロディー重視の傾向があったように思う。
多くのスタンダードが美しい旋律の曲であることは、このことと無関係ではないだろう。
やがて、時代とともに人々の音楽に求める価値観、嗜好はメロディーだけでなく他の要素へも向けられていった。
ロック、フュージョン、レゲエ、ラップなどのミュージックジャンルが登場し、
それぞれが一時代を築いたのもそうした志向が働いてのことだろう。
かつて、故福田一郎氏、湯川れい子氏、小林克也氏らに憧れたことがあった。
音楽評論家という職業とはいえ、彼らの年齢にそぐわない新しい音楽への探求心と、音楽ジャンルを超越した最新洋楽シーンに対する造詣の深さに感心したからだ。
私自身も一時期までは、変化の激しいミュージックシーンを理解できたし、
意識的に付いて行こうという意欲もあったが、
さすがに昨今の洋楽、邦楽含め最先端の音楽には付いていけなくなった感がある。
楽曲そのものの質の問題、楽曲ができるまでの過程の問題(作曲のインスタント化)、
メロディー重視でなくなったことなど、付いていけなくなった要因は様々と自分なりに判断している。
現在の音楽、そして将来の音楽のことを考えたとき、何よりも心配なのは音楽が使い捨て傾向にあると感じられることだ。
それは、従来のレコードやCDといった媒体ではなく、ダウンロードという手段により、
PCなどデジタル機器での無形の音楽管理が可能になったことなども影響しているのだろうが・・・
未だかつてない、こうした音楽環境の変化が世界的規模で音楽業界に迫っていると云っても過言ではない。
人々のこうした音楽との接し方、位置付け、価値観、楽しみ方は時代とともに変化していくのが常なのでだろうが、こうして考えてみると、これからの時代、二つのことが心配である。
一つ目は、スタンダード・ナンバーと呼べる曲が果たしてこれからも生まれるのかという心配。
前述の音楽を取り巻く環境の変化、そして音楽を楽しむ我々自身の嗜好の変化などを考えると、
悲観的な見方をしがちだが、いつの時代も良識ある正統派が必ず存在し、その時代その時代に相応しい優れた楽曲が創出され、やがてスタンダード・ナンバーとして生まれ変わっていくと信じたい。
スタンダードとは云え、時代を超越した普遍的なものはないのだから、スタンダードそのものも進化しながら、自然発生的に生まれてくるのだろう。
二つ目は、これまでのスタンダード・ナンバーが受け継がれていくかという心配である。
現在スタンダードと呼ばれている曲がどれだけあるのか私には想像もつかないが、
恐らく数え切れない程あると思われているスタンダード・ナンバーが、やがて人々から忘れ去られ、生物界の絶滅危惧種的扱いにならないとは限らない。
冒頭で挙げた「慕情」「煙が目にしみる」「ムーンリバー」などを、最近テレビ、ラジオであまり聞かなくなった。
一方で、こうした名曲を集めたアルバムが地道ではあるが売れているという。
購買層は当然ながら中高年以上の年代の方たちである。
果たして現代の若者たちはこうした曲を知っているだろうか。
あるいは、耳にしたとき、どのようにな感想を持つのだろうか。
ビクターヤング・オーケストラが演奏する「エデンの東」を聴くと、勇気だったり、希望だったり、癒しだったり、その時々の心境に応じた受けとめ方ができ、私など今でも胸が熱くなる。
私のこうした音楽に対する懸念が、お節介人間の単なる「取り越し苦労」であって欲しいと今は願うばかりだ。
スタンダード・ナンバー(standard number)のことを指す。
果たして、スタンダード・ナンバーと呼べる曲はどのくらいあるのだろうか。
「慕情」「煙が目にしみる」「ムーンリバー」「エデンの東」など挙げれば限がない。
「ポピュラー音楽で、長年にわたり、多くの演奏家や歌手に
とりあげられてきた曲」(小学館「例文で読むカタカナ語の辞典」より)
と辞書にあるが、
グラミーを受賞したとか、アルバムセールス何万枚以上といった基準も、
所謂、選定委員会的な組織によって認定されるものでもないため、ある意味アバウトな世界である。
そう考えると、スタンダード・ナンバーかどうかの判断は主観的要素が強く関係しているように思える。
だが、定評あるスタンダードの個々の作品を見てみると、ひとつひとつは長い年月をかけ、広い地域で客観的に認められていった名曲ばかりである。
始まりは個々の主観でも、多くの人たちの賛同と情熱と評価によって多大な客観性を帯びていったのだろう。
世界中の多くのアーチストが原曲に敬意を払いながら、
独自の解釈とアレンジを施し表現された演奏は、
更なる魅力をその曲に吹き込み、上書きされ、より多くの人たちに親しまれるようになっていく。
多くの時間を掛けてのその繰り返しが、その曲のステイタスを維持拡大し、確固としたスタンダードへと導いていったのだ。
1950年から60年代、わたしが幼少の頃、
欧米からたくさんの新しい音楽が日本に入ってきた。
それらは洋楽と呼ばれ、聞き慣れないアーチスト名、グループ名そしてミュージックジャンルが次々と紹介されていった。
当時は、演歌、歌謡曲と二分するほどの勢いがあり、連日ラジオから流れていたように記憶する。
その中には、以前から既にスタンダードと呼ばれていた曲もあったが、
その当時としては全くの新曲もたくさんあった。
そうした新曲の中の何曲かが歌い継がれ、演奏され続けて現在に至り、スタンダードとしての称号を得てきたのである。
ビートルズの「イエスタディー」はそうした代表曲のひとつだろう。
こうして考えると、幸運にも私たち世代は、現在スタンダードとして位置付けられている楽曲のまったくのオリジナル版、
言い換えれば原曲をリアルタイムで経験できたということだ。
ところで、音楽にはメロディー(旋律)、ハーモニー(和声)、リズム(拍子)という要素があり、
この三つを「音楽の三大要素」と云うことは誰もが知っている。
このわたしが幼少の時代、音楽はメロディー重視の傾向があったように思う。
多くのスタンダードが美しい旋律の曲であることは、このことと無関係ではないだろう。
やがて、時代とともに人々の音楽に求める価値観、嗜好はメロディーだけでなく他の要素へも向けられていった。
ロック、フュージョン、レゲエ、ラップなどのミュージックジャンルが登場し、
それぞれが一時代を築いたのもそうした志向が働いてのことだろう。
かつて、故福田一郎氏、湯川れい子氏、小林克也氏らに憧れたことがあった。
音楽評論家という職業とはいえ、彼らの年齢にそぐわない新しい音楽への探求心と、音楽ジャンルを超越した最新洋楽シーンに対する造詣の深さに感心したからだ。
私自身も一時期までは、変化の激しいミュージックシーンを理解できたし、
意識的に付いて行こうという意欲もあったが、
さすがに昨今の洋楽、邦楽含め最先端の音楽には付いていけなくなった感がある。
楽曲そのものの質の問題、楽曲ができるまでの過程の問題(作曲のインスタント化)、
メロディー重視でなくなったことなど、付いていけなくなった要因は様々と自分なりに判断している。
現在の音楽、そして将来の音楽のことを考えたとき、何よりも心配なのは音楽が使い捨て傾向にあると感じられることだ。
それは、従来のレコードやCDといった媒体ではなく、ダウンロードという手段により、
PCなどデジタル機器での無形の音楽管理が可能になったことなども影響しているのだろうが・・・
未だかつてない、こうした音楽環境の変化が世界的規模で音楽業界に迫っていると云っても過言ではない。
人々のこうした音楽との接し方、位置付け、価値観、楽しみ方は時代とともに変化していくのが常なのでだろうが、こうして考えてみると、これからの時代、二つのことが心配である。
一つ目は、スタンダード・ナンバーと呼べる曲が果たしてこれからも生まれるのかという心配。
前述の音楽を取り巻く環境の変化、そして音楽を楽しむ我々自身の嗜好の変化などを考えると、
悲観的な見方をしがちだが、いつの時代も良識ある正統派が必ず存在し、その時代その時代に相応しい優れた楽曲が創出され、やがてスタンダード・ナンバーとして生まれ変わっていくと信じたい。
スタンダードとは云え、時代を超越した普遍的なものはないのだから、スタンダードそのものも進化しながら、自然発生的に生まれてくるのだろう。
二つ目は、これまでのスタンダード・ナンバーが受け継がれていくかという心配である。
現在スタンダードと呼ばれている曲がどれだけあるのか私には想像もつかないが、
恐らく数え切れない程あると思われているスタンダード・ナンバーが、やがて人々から忘れ去られ、生物界の絶滅危惧種的扱いにならないとは限らない。
冒頭で挙げた「慕情」「煙が目にしみる」「ムーンリバー」などを、最近テレビ、ラジオであまり聞かなくなった。
一方で、こうした名曲を集めたアルバムが地道ではあるが売れているという。
購買層は当然ながら中高年以上の年代の方たちである。
果たして現代の若者たちはこうした曲を知っているだろうか。
あるいは、耳にしたとき、どのようにな感想を持つのだろうか。
ビクターヤング・オーケストラが演奏する「エデンの東」を聴くと、勇気だったり、希望だったり、癒しだったり、その時々の心境に応じた受けとめ方ができ、私など今でも胸が熱くなる。
私のこうした音楽に対する懸念が、お節介人間の単なる「取り越し苦労」であって欲しいと今は願うばかりだ。
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