![]() |
Paulina KupisによるPixabayからの画像 |
今更ですが、 今年2025年は昭和の元号に置き換えると「昭和100年」に当たるとのこと。マスコミをはじめ世間では「昭和」が俄かに活気づいています。昭和生まれのわたしにとっては、この件はよく言われる「昭和は遠くなりにけり」を実感するところですが、このフレーズは実は「昭和も遠くなりにけり」がオリジナルのようです。「も」なので当然に昭和以外の別の何かがあるはずです。それが「明治」という年号だそうで、そもそもの出所は俳人の中村草田男氏が昭和6年に詠んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句で、それが元祖。後にこの句に準えて「昭和は遠くなりにけり」というわたしたちが知るフレーズが世に知られるようになったようです。
![]() |
beasternchenによるPixabayからの画像 |
さて、雑学はこれくらいにして、昭和、平成、令和と3元号を生きてきたわたしとしては、
2025年を「昭和100年」と置き換え表現されるまでは、実は元号に関してはほとんど関心はありませんでした。誰が気付いたのか知りませんが、昭和が100年の節目であるとわかると、関心度も高まり受け止め方も大きく変わるものだと、我ながら驚いています。
わたしが昭和100年という表現を聞いてまず思ったのが「我が母親が生きていたら今年で100歳になるんだ!」という感慨でした。こうした思いは西暦では湧き上がってこなかったと思います。昭和という元号だからこそ導き出されたセピア色の思いだったとわたしは感じています。
2025年が昭和だったら100年という事実を知って以来、わたしの中で昭和の時代が俄に懐かしく、愛おしく思えるようになりました。西暦では感じとれない微妙なニュアンスが昭和という響きにはあるのだと感心しました。
改めて言葉の偉大さと影響力を痛感したところです。
今回はそんな「暦」に関するお話しを少々。
🔷
さて、わたしは以前から日本の元号というものに対し、些か懐疑的だったところがありました。なぜなら、次の元号が何であろうと自分には関係のないことだし、そもそも煩わしささえ元号に対し感じていたからです。
この投稿がどういった人に読んでいただいているのかは、わたしには分かりませんが、
現在、社会人現役の方も、わたし同様に現役を退いた方も、少なからず経験のあることだと思うのですが、日本のように和暦と西暦とが実務上混在していると、書類一つ作るにも余計な神経(和暦と西暦との対比を確認する作業)を使っていたという事実です。当時のわたしは過激にも「和暦なんか廃止になれば」とさえ思った時期もあったくらいです。
![]() |
© rawpixel, 123RF Free Images |
日本中の労働者の和暦と西暦との照合に費やす時間を考えたら、どれだけの時間の浪費になるのか、はたまたその浪費した時間を時間給に換算したら、どれ程の総額になるのかは注目に値します。仮に西暦に統一されれば、官公庁や民間企業に於いては、巡り巡って人件費の大幅な削減につながるはずです。まさに「Time is Money」そのものなのです。
🔷
ところで、わたしの知る限り、わが国のように2種類の歴を並行して採用している国はないはずです。歴史上では中国や韓国、あるいはアジア諸国の中でかつては使っていた国もあるようですが、現在は使われていないようです。
更に日本の場合厄介なのは、元号が変わるたびに年数を元年つまり「ふりだし」に戻すことです。そのため、前述したように業務上では煩雑とまではいかないまでも、無駄な神経を使うことは確かです。
ちなみに、中国では歴史上は元、明、清などの時代名称はありますが「元*年、明*年」のようには言わず、年数も「ふりだし」には戻さず通算されているのです。例えば「清(王朝)の時代は1644年から1912年まで」といった具合です。
![]() |
heike2hxによるPixabayからの画像 |
このように世界で唯一と言ってよい和暦西暦の併存国(わたしの勝手な造語)である日本は、果たしてこの先どうして行くのでしょうか。かつて現行の元号を「令和」と決める際に、有識者によって和暦西暦をどうすべきかといった議論もなされたと聞いたことがありますが、真偽のほどは定かではありません。
恐らく、あらゆることがそうであるように、我が国は改革よりも現状を優先する国なので、余程の事がない限り、現状維持で行くのだと個人的にはみています。マスコミ等でもこの件に関しての際立った報道もないようですから、当面は現状のままということなのでしょう。
🔷
ただ、この件に関しては現状維持で良いとわたしは考えています。逆に世界で一国であるということを誇って欲しいと思います。いつも「世界の状況をみながら検討します」のような一辺倒なコメントではなく、時には独自性やフロントランナー的な姿勢も示してほしいと思うからです。
上記に述べたように明治から令和まで、日本の中でそれぞれの世代や人々が感じてきた歓喜や悲哀、そしてそれに伴ういくつもの思い出は、西暦ではあまりに希薄で物足りなさを感じるからです。
やはり和暦を背景にしてこそ、わたしたちの思い出は鮮やかに甦るのだと思うからです。
しかしながら、前述したように業務上での和暦の扱い辛さは、我が国が国際社会の一員である以上、どこかの時点で改善しなければならないことだと思います。つまり、西暦へ収斂とまでは行かないまでも、今以上に和暦西暦の使い分けを工夫しなければいけないということです。
理性や合理性を優先すれば「西暦」で、「情緒」や「伝統文化」などを重んじるならば「和暦」といったところでしょうか。
![]() |
Dirk VetterによるPixabayからの画像 |
一方で、官公庁などは和暦に対してはまた別の拘りがあるようで、その一つが「慣例、慣習」いわゆる「今までずっとそれでやってきたから」という拘りです。過去の膨大な遺産(資料等)があればこそのご意見と推察しますが、このまま押し進めれば、その過去遺産はますます膨大化する訳で、どこかで決断する必要があるのかと思うのですが・・・
でも、正直なところ、移行は大変なことだと思います。
ネットなどで、この問題の経過を見ても、官公庁が和暦に拘る決定打ははっきりしていないように個人的には感じています。一方で「和暦西暦変換アプリ」などがあるから現状で支障ないといった楽観視のご意見なども多いようで、やはり膨大な過去遺産の変換作業が障壁になっているように感じます。西暦への移行は途轍もなくハードルが高いようです。
![]() |
PetraによるPixabayからの画像 |
現状の和暦と西暦の並存は仕事の上では不便を感じつつも、和暦の必要性と言うか尊さを肌身で感じはじめた昨今のわたしですが、わが国が国際社会の一員としてあり続ける以上、ビジネスに於ける実務上では、やはり西暦に統一すべきではないかと考える一人です。
このように和暦西暦の問題は非常に難問です。わたし自身もこの投稿の中で一転二転と考えがふらついている有様ですから、凡人であるわたしには到底敵う相手(問題)ではないことは充分承知しています。妙案など到底思い浮かびません。
こんなとき、現代人は今流行りの「AIに訊ねてみれば」となるのでしょうが、この手の問題にはAIは決して一つの結論を提示してくれません。答えてくれるのは、この問題の時代背景や経過概要など、そしていくつかの代表的な意見だけです。要するに、わたしたちに考えるヒントを与えてくれるだけなのです。
和暦西暦の問題は、日本人として避けては通れない将来の大きな課題の一つだと思います。
独自視点を交えてこの問題を考えてきたつもりですが、わたしのコメントもAI同様に議論の叩き台でしかありません。しかしながら、この問題を考えるきっかけになれば幸いと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA
<追記>
この投稿原稿を書き終えた後、試しにChatGPTにわが国の和暦西暦の問題を訊ねてみましたところ、予想通り本文で触れたような概要説明が回答として返ってきました。
そして最後に「あなたはどう思いますか?」と逆質問されてしまいました。(笑)
0 件のコメント:
コメントを投稿