バン・クライバーンを偲んで

「世界的ピアニスト、米国のバン・クライバーン氏死去」という記事を2月28日に読んだ。

最近、幼いころからの憧れの存在、あるいは私自身のその後に大きな影響を与え、大袈裟に言えば方向付けをしてくれた有名人たちが次々と逝ってしまう。
ピアニスト、バン・クライバーンも私にとってそうした人のひとりである。

アンディー・ウィリアムスのときもそうだったが、その度に「いつの間にか多くの時が流れたんだなあ」という実に当り前の事実に圧倒されている。残念という気持ちは勿論だが、それ以上に人生の儚さを身をもって実感する。


当時、クラシック音楽に興味をもち、その後のライフスタイルにクラシック音楽鑑賞という掛け替えのない趣味を授けてくれたのも、ある意味ピアニスト、バン・クライバーンのお蔭といっても過言ではない。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の存在を知ったのもクライバーンのLPレコードからである。

針を下した瞬間、スピーカーから聞こえてきた音楽は、スケールの大きな堂々とした曲で、その時は只々圧倒されるばかりだった。それまで聴いていたクラシック音楽と較べても、メロディー、響き、臨場感すべてに於いて新たな発見だった。この曲が持つ豪華さに加え、クライバーンのスケールの大きな演奏が更なる華やかさを演出していたのだと思う。
「クラシックという玉手箱にはまだまだこうした名曲がたくさん隠れているんだ」と少年の心が期待に胸ときめいた瞬間だった。

思えば、1958年のあの出来事。当時、6歳程だった私はリアルタイムにあのニュースを知ったという記憶は勿論ない。知ったのは、恐らくだいぶ経ってのことだろう。ただ、幼少のころからクラシック音楽には少なからず興味はあったので、子供ながらにその出来事に感動したのだと思う。

東西冷戦下のソ連で1958年に創設されたチャイコフスキー国際コンクール。その栄えある第一回大会で米国のピアニスト、バン・クライバーンが最初の優勝者になったという出来事。
あまりの演奏の素晴らしさに、ソ連の審査員も満点を付けざるを得なかったというエピソードさえある出来事である。
当時、幼い子供の目から見て、米国は大きく、カッコ良く、寛大ささえ感じる憧れの国だったから、私自身には対岸の出来事とは思えなかった。ピアニスト、バン・クライバーンのその堂々とした雄姿と風貌は、無知な幼子には時の米国大統領ジョン・F・ケネディーにも重なった。それ故、それから数年後に起きたケネディー大統領暗殺というあの痛ましい事件はとても衝撃的だったのだが・・・

ところで、凱旋後のクライバーンのもてはやされ方といったら、それは尋常ではなかったらしい。
コンクールで演奏されたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は、すぐさまスタジオ録音され、
同時期にカーネギー・ホールでは凱旋コンサートが開催された。その際、ソ連から当時の指揮者キリル・コンドラシンをわざわざ招く程の熱狂ぶりだったらしい。
持ち前の大きな指で奏でられた演奏は若々しく雄大で、輝きに溢れ、それこそ未来志向であったに違いない。その後の彼の栄光は約束されていたかにみえた。



バン・クライバーン チャイコフスキー ピアノコンチェルト第1番
1958年5月30日録音
キリル・コンドラシン指揮
RCA交響楽団
コンクール後の最もクライバーンが輝いていた時の録音。チャイコフスキーとラフマニノフのピアノ協奏曲のこのカップリングは数えきれぬほどあるが、個人的にはこれを上回るCDは出ていないと思う。
 
チャイコフスキー
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 Op.23
RCA交響楽団
指揮:キリル・コンドラシン
 
ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op.30
シカゴ交響楽団
指揮:フリッツ・ライナー
(1962年4月2日録音)




1958年5月19日Live
キリル・コンドラシン指揮
シンフォニー・オブ・ジ・エア
 
カーネギーホールで開催された 凱旋コンサート。
名匠キリル・コンドラシンをソ連から招いての共演である。
 
ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op.30
シンフォニー・オブ・ジ・エア
指揮:キリル・コンドラシン
 
パガニーニの主題による狂詩曲 Op.43
フィラデルフィア管弦楽団
指揮:ユージン・オーマンディ
(1970年5月7日録音)







だが皮肉にも、それ以降招かれる席上では常にチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番がリクエストされ、一説では他の曲を練習する時間がほとんどなくレパートリー不足になるなど、そうした状況はその後の彼を精神的に追いつめていったようである。

その後、そうした悲劇のヒーローも何度か沈黙と復活を繰り返すが、それ以降の音楽評論家筋の評価は厳しかったようである。確かに、後に購入したCDなどをいくつか聴いてみても、代表的なピアノ協奏曲は採り上げているものの、演奏は精彩を欠き、あの時のチャイコフスキーを超える出来映えのものは残念ながら見当たらない。

ご存じのように音楽史、特に近現代の音楽史において、戦争や政治が音楽家にもたらした圧力、影響は想像以上に強烈なものだったに違いない。それはその後の音楽家の音楽生命、さらには命そのものまで脅かし狂わせたのだから。ナチス政権下のブルーノ・ワルター、フリッツ・ライナー・ジョージ・セルなどの指揮者、また作曲家ではラフマニノフ、ストラヴィンスキー、シェーンベルクなどソ連の圧政下から逃れ、亡命を余儀なくされた音楽家たちの悲劇は広く世に知られているところだが、クライバーンのようなケースはいたって珍しいことなのかもしれない。

こうして、彼の存在は米国内をはじめ、わが国でも忘れ去られていく。
今でこそインターネットで検索をかければあらゆることを知ることができるが、当時はせいぜいラジオか音楽雑誌でアーチストたちの情報を得るくらいしか手段がなかった。

彼の名前を再び見るのはRCAから発売されたクライバーン・コレクションでのことだった。
そして、2009年彼の名を冠したコンクール「バン・クライバーン・国際ピアノコンクール」で日本の辻井伸行さんが優勝したという嬉しいニュースとともに、クライバーンの名がわが国で再燃したのはとても喜ばしい出来事だったと思う。日本人の優勝者が出なければ、恐らくこのコンクール自体の名前も今ほどメジャーにはなり得なかったであろう。
その時の授賞式の模様をテレビで観たが、年老いてはいたが1958年当時の面影を垣間見ることができ、とても懐かしかった。優勝者の辻井さんには申し訳ないが、彼へのおめでとうという気持ちよりも、久々にクライバーンの健在ぶりを拝見できたことの方が正直嬉しかった。
その体格とは裏腹に、繊細な心遣いと包容力は彼のピアノタッチにも表れているが、そうした極端に相反する彼の要素は、栄光と挫折、波瀾万丈といった彼の人生を象徴しているかのようだ。

こうした中、改めてキリル・コンドラシン指揮、RCA交響楽団、そしてクライバーンのピアノによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を聴いたが、第三楽章のフィナーレ部分のテンポ、バランス、オーケストラとの調和など、この演奏を上回るものはないと今でも思っている。
私にとって、この曲の良し悪しはバン・クライバーンの演奏が基準なのだ。

将来を約束され、栄光の道を歩むはずだった天才が、運命の悪戯と言うか、運命の皮肉にその人生を大きく狂わされた悲劇のストーリーを、いったいぜんたい彼自身はどう感じていたのだろう。

昨今、「赤ずきん」「白雪姫」さらには「シンデレラ」まで実写化の計画があるというハリウッド映画。
新鮮で画期的な題材に事欠くあまり、安易に古典アニメに活路を見出そうとしているのだろうが、何故か情けなく惨めに思えるのは私だけであろうか。
こんな時こそ、彼の伝記を優れた脚本と演出で映画化するような企画をたて、偉大なクライバーン氏の業績をアカデミーで今こそ称えるべきだろうと思う。

何はともあれ、私としてはクラシック音楽の素晴らしさを教えてくれたバン・クライバーン氏に只々感謝である。
(2013年3月)


<バン・クライバーンその他のアルバム>

 
リストのピアノ協奏曲第1番&第2番(1968年8月録音)
グリーグのピアノ協奏曲(1970年5月録音)
 
演奏はすべてユージン・オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団。











シューマンのピアノ協奏曲(1960年4月録音)
マクダウェルのピアノ協奏曲第2番(1960年10月録音)
 
演奏はシューマンの方がフリッツ・ライナー指揮のシカゴ交響楽団。マクダーウェルの方はワルター・ヘンドル指揮のシカゴ交響楽団である。

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