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思えば、わたしは昭和を生き、平成を生き、そしていま令和という時代を生きています。
こうした3つの時代を生きてきて、とりわけ印象に残るのはテレビという一電化製品のあまりの存在感でした。テレビはわたしたちの生活の中で、これまで,そしてこれからも最も影響力がある発明品と言っても大袈裟ではないでしょう。
ですから、テレビというメディアの善悪の議論(実はこの問題も採り上げたいが)はさておき、昭和生まれのわたしとしては、テレビ抜きに人生を語ることはできない訳です。
わが「お茶の間」に初めて登場したテレビに胸ワクワクだった小学生のあの頃から、日々の生活の中心にテレビはあったのです。日本のこと、世界のこと、珍しいもの、新しいことなどあらゆることをわたしたちは、当時テレビから教わってきたのです。
恐らく、わたしと同世代の方は共通の認識をお持ちだと思います。
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PexelsによるPixabayからの画像 |
大好きなアニメ番組(当時はマンガ番組と呼んでいた気がする)が放送される日などは、待ち遠しくて、その日一日がワクワクだったことを思い出します。当時の子供たちの遊び(楽しみ)と言えば、ソフトボールや虫捕りなど野外で自然と戯れる以外は、極々限られた遊びしかなかった時代です。贅沢はできない時代でしたから、テレビでマンガを見ることは当時としては最高の娯楽だった訳です。
やがて、自身の成長とともに、好みの番組はマンガからドラマ、音楽番組、バラエティーなどへと移り変わり、同時にテレビ以外の楽しみも増えてきましたが、それでも相変わらずテレビは私たちの暮らしの中心にあったのです。
そんなテレビですが、子供ながらに一つ気になることがありました。それは、連日のようにテレビに登場していた人が、いつの間にか姿を見せなくなるという現象です。
みなさんはそうした芸能人や出演者が、当時からほんのわずかですが存在していたことにお気付きだったでしょうか。
いつの間にかテレビの画面から姿を消えてしまうタレントさん。
「そう言えば、そんなタレントさんいたネ!」といった調子で時折話題にのぼる芸能人。
世にいう「一発屋」さんという人たちです。
前置きが長くなりましたが、今回はそんな「一発屋」さんについてお話したいと思います。
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かつては、「一発屋」さんはお笑い系タレントに多く見受けられましたが、最近ではそうした「一発屋」さんの名も聞かなくなりました。実は、私自身がそうしたバラエティー番組をほとんど見なくなったというのが、お無沙汰の一番の原因なので、見掛けなくなったのは当然と言えば当然の話なのです。恐らく、いまの時代も一定程度の「一発屋」さんは存在していて、「登場しては消えて行く」を繰り返しているのだろうと想像するのですが、本当のところはどうなのか分かりません。実はわたしは、いまのお笑い系タレントや若手俳優のほとんどを知りませんから、「一発屋」さんがいるかどうかなど分かるはずがないのです。
しかしながら、「一発屋」さん云々よりも、わたしの一抹の不安は、昭和の時代にあれ程夢中になったテレビの存在が、いま危うくなっているのではないかということです。
とは言っても、この問題はかなりボリュームがある事柄だと思うので、機会を見て改めて採り上げたいと思います。
さて、話題を「一発屋」さんに戻すとして、「一発屋」さんとはウィキペディアによれば、以下のように記述されています。
大舞台で一時的にのみ活躍を見せた歌手、映画監督、芸人、作家、スポーツ選手などを表した呼称表現である。
元々は野球において長打を狙う(当然ながら打率は落ち込む)選手を指す言葉であったが、現在では一時的にのみ活躍した選手を指してスポーツ全般に拡大して用いられるようになった。
引用:ウィキペディア、一発屋 、最終更新 2025年2月11日 (火) 12:32
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Keith JohnstonによるPixabayからの画像 |
全般的に、お笑い界や芸能タレントに「一発屋」さんは多いようですが、「一発屋」さんの元祖が野球界にあったとは私も調べてみるまでは分かりませんでした。言われてみれば頷けるところで、言葉の世界ではオリジナルはとうの昔に忘れ去られ、オリジナルからスピンオフした言葉の方が生き残り、別のシチュエーションで使われているというケースは多々あるようです。若い人たちが使う短縮語も、元の言葉がどうだったのかわからなくて話が理解できないこともよくあります。
言葉って生き物と同じで、どんどん成長していることを実感する瞬間です。
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さて、前述したように「一発屋」さんというのは、どの世界でも見かけます。例えば本来の野球の世界では王、長嶋、野村、落合など、いわゆる「ホームランバッター」と呼ばれている選手は、それこそ元祖「一発屋」さんと言える訳です。ところが彼らは一時的ではなく、長い期間ホームランを打ち続け、その名声を維持できていた訳ですから、わたしがここで採り上げている意味の「一発屋」さんには該当しない訳です。彼らは例外中の例外といえる選手たちなのです。
しかしながら、ほとんどの選手は一時的に脚光を浴びたとしても、それも束の間、時の流れとともに人々の記憶から忘れ去られてしまいます。けれども、そうした脚光すら一度も浴びずに選手生活を終えていく選手も多いと聞きます。それを考えると「一発屋」さんと呼ばれる人たちは、むしろ上出来(名誉)と言えるのかも知れません。
話はチョッと横道にそれますが、私は以前から水彩画を細々と続けているのですが、いつまでたってもオリジナリティーある作品を描くことができずに苦労しています。どれもこれもよくある平凡な作品に終始してしまうのです。ものの本を読んでも、TouTubeの投稿を見ても、自分らしさを出すには「只々描き続けるしかない」というのが結論のようで、一番の秘訣だそうです。
仮に魔法のような秘策があったら、だれも苦労などしないでしょう。生涯に亘って悩み苦しんだという芸術家のエピソードも耳にすることはなく、今より何倍も多くの大芸術家が出現したはずです。
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Nick CollinsによるPixabayからの画像 |
わたしの場合、有名画家や売れっ子画家になりたいといった、大それた野望がある訳ではないので気楽ですが、本格的に画家を目指している方たちにとっては、「自分らしさを出す」というのは大きな壁であり厳しいテーマだと思います。
わたしのように趣味の範疇で絵を描いていても、創作活動に於いては個性、独自性を出すということの大変さや重要性は、肌身で感じられるくらい理解できます。
そのためか、絵を描くことで「一発屋」さんについての見方も以前とは真逆になってきました。
例えば、お笑い芸人の「一発屋」さんに対しては、これまで多少蔑む部分が正直なところあったのですが、「お笑いの一発芸」もまたその人の個性、独自性の現れと考えたら、彼らは立派に「自分らしさ」を出しているではないかと思えるようになったのです。
ダンディー坂野、ヒロシ、三瓶などは、当時から好意的に見てきた芸人さんでしたが、それでも心のどこかに見下す部分があったように思うのです。
彼らも、一時はお茶の間の話題を独占したものの、いつの間にか消えていった人たちで「一発屋」さんだった訳です。
彼らは私の中では今も忘れられない芸人さんたちで、中でもダンディー坂野の一発ギャグ「ゲッツ!」はいつ見ても笑えます。彼らは「一発芸」という自分の個性を世の中にさらけ出し、多くの人たちに笑いと希望(?)を提供してきたのだと、今になって思えるようになりました。
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たとえ「一発屋」さんと言われようと、彼らは生涯で一発の「ヒット」,否「ホームラン」を放つことができたのですから、わたしのような凡人よりも数段「高み」にいるのは確かなことです。改めて、彼らに賛辞を贈りたい気分です。
「個性を出せ!」とか「自分らしさを出すことが大切」とは、芸術の世界ではよく耳にするフレーズです。しかしながら、言葉で言うのは容易いのですが、そこに到達することが如何に難しいことかを、最近になって漸く理解できるようになったのは、自分でもラッキーだったと感じています。
それもこれも、先に述べた水彩画をながらく続けていたからこそ気付いた境地だと思っています。
わたしの場合、水彩画に於いては相変わらず「自分らしさ」を出せていませんが、最近の心境としては先ずは「一作品でも自分らしい作品を!」を目標に、「一発屋」さんを目指したいと考えるようになりました。
どんなことも長く続けることが尊い訳で、世に言う「継続は力」を信じ水彩画を続けていこうと思っています。
繰り返しますが、どんな世界にも「一発屋」さんはいると思います。
そして「一発屋」さんはすぐに消えてしまうかも知れません。されど「一発屋」さんはその独特のキャラクターで一世を風靡したことは紛れもない事実なのですから。
決して卑下することはないのです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA
<追記>
本文中、登場いただきました方々の敬称を、筆者の一方的な判断により省略させていただきましたことを、心よりお詫び申し上げます。
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