IN MY OPINION:「日展の問題から見えてきた審査の本質」
阪急阪神ホテルズのレストランメニュー偽装問題が報道されて以降、同じような事例が各地で次々と発覚しているという。かつて牛肉の国内外産の産地偽装や賞味期限・消費期限改ざんの問題など、悪質な食に関する偽装が大きな社会問題として世の中を騒がせたことがあったにも拘らず、同様の事件が繰り返されるということは、殆ど過去の教訓が活かされていないということだ。
哀れな人間の情けない性(サガ)と言ってしまえばそれまでだが、その背景には自分さえ良ければといった利己主義と儲けたいという貪欲さが必ずと言ってよいほど見え隠れしていて、只々呆れるばかりである。こんなことでは隣国の「著作権を無視したコピー問題」などを批判することはできないだろう。事の本質は両者それ程違っていないように思える、節操のなさである。
だが、この問題、問題の本筋以上にいただけなかったのが、その後の謝罪会見である。謝罪会見であったかどうかも疑わしいほどに挑戦的だった出崎社長の一貫した「誤表記」を主張する表情態度は、名立たる組織の最高責任者とは到底思えぬ信じ難いものだった。その無責任さは部外者の我々でさえ腹立たしく感じたのだから、永年使えてきた当該ホテルの従業員の方たちにとっては、到底許し難く信じ難い光景であったに違いない。彼らの心境を考えると、気の毒でならない。
だが、その矢先、この問題に勝るとも劣らぬ情けない事件が新聞の一面を飾っているのに目を疑った。
2013年10月30日の朝日新聞朝刊のトップ記事「日展書道、入選を事前配分」である。事件の詳細については当該新聞等の記事を参照されたいが、要は日展の5つある科の「書」科内で、有力会派での入選数を事前に割り振る不正が行われていたという内容である。簡単に言えば、応募の段階で入選者は既に決まっていたというストーリーである。
事の発端は、2009年度の審査の際、ある日展顧問による「天の声」により、有力8会派に入選者が配分されたという不正審査の実態が内部告発的に明らかになったことだ。
だが、この記事を読んで不正の問題以上に腹立たしかったのは、この時の審査で「8会派に属していない人はひとりも入選しなかった」という悲しい事実である。曲がりなりにも真に才能ある実力者が入選できる道筋が多少なりとも残されていたならばまだしも、最初から道が閉ざされているところに、わざわざ一万円まで払い応募した応募者の情熱は何だったのだろう。主催者側はそうした応募者の気持ちをどう思っているのか。これはどうみても詐欺罪以外の何ものでもないし、それだけで済まされる問題でもない。どこまで遡るかは私には分からないが、最低でも一定の応募者に対し返金すべきだろう。
音楽や絵画など芸術活動に少なからず関心のある私としては、いつの日か「洋画」科に応募してみようなどと淡い希望をもっていたが、今回の件でそうした関心も意欲も一気に薄れてしまった感がある。こんな私でさえこの記事に対しては、やり場のない怒りを感じているが、一度でも応募経験のある方にとっては怒りの程度は私の比ではない筈だ。
入選者が端から決まっているという歪んだ審査を、長年に亘り、さも厳正な審査のごとく振る舞ってきた日展という組織。
多くの芸術家のタマゴが輝かしい明日を夢見て希望を託す筈の「日展」が、そのような薄汚れた組織実態だったということが分かった時の絶望感。それは日展そのものが味わうのではなく、何も知らずに応募した老若男女問わず純粋な応募者すべてが味わうのだ。そんな残酷なことがあって良いのだろうか。そう考えると日展の責任は極めて重い。
この問題、突き詰めていくと「審査とは一体何なのか?」という極めて基本的だが非常に厄介な疑問に辿り着くことになる。
そもそも、芸術の世界なんて微妙なもので、どの分野でもテクニックがある程度(このある程度というのもまた微妙な言葉なのだが)まで到達していれば、それ以上はそれぞれがどう感じるかということで、優劣など付けられない世界だと常々思っている。優劣付けたがるのは、作品を商業的に考えるからで芸術的には何の意味もないことだ。
例が適切かどうか分からないが、ヴァイオリンの歴史的名器と言われているストラディバリウスと量産品のチョッとした高級ヴァイオリンとの音色の違いを完全に聞き分けることが、その筋の専門家でさえできないという。このことはいくつかのテレビ番組でこれまでに実験的に証明されていることだ。これは何を意味しているかと言えば、「優劣」は「どれだけ大きな音が出せるか」や「どれだけ擦れずに小さな音が出せるか」といった一定の判断基準に基づけば可能だろうが、そもそもそうした判断基準を用いること自体、芸術の世界では邪道なのだから、「優劣」もまた意味のないことという他はない。
歴史的価値、地域的価値、技術的価値など芸術作品にはそれぞれ価値判断があるが、私たちは
ストラディバリウスの例に見るように、良い音色、悪い音色ではなく、私たち自身が「好き」か「嫌い」かという判断基準で、これまで対象を判断していたのかもしれない。それを優劣と思い込んでいただけなのかもしれない。
このように、芸術に於ける審査とはそれでなくても微妙な世界なので、「日展」は今回のような不正という「故意」を審査の中に絶対入れてはならなかったのである。このような状況では過去の入選作品や他部門の入選作品に疑いの目がいくのも人情である。問題は大きな範囲に波及しそうというか、寧ろ波及させなければいけない問題かもしれない。
長年、金にまつわる悪い慣習だらけの書道界と階級制度が色濃く残る日展は、これを機に大いに反省し、信頼回復に向け一大改革が必要である。
邦画の世界では「10倍返しだ」、「100倍返しだ」と、何やら物騒な風潮がメディアを騒がせ、一方「土下座」が当り前のような謝罪等が受けているようだが、こうした謝罪の際、私たちが本来求めているのは、そうした極端な空々しいパフォーマンスではなく、極々自然なリアクションで事足りるのである。今回の件もそうだが、肝心なことは二度と過ちを繰り返さないという誠意だと思う。
あまりに中身がない反面、表面だけを飾りたてる傾向がいたる所、場面で目立つ昨今、本物を見極める確かな目(判断力)を持ちたいものである。それはストラディバリウスの音色を聴き分けるような聴力を養えということではなく、自分自身が感じた印象を大切にし、周りに惑わされるなということだと思う。
哀れな人間の情けない性(サガ)と言ってしまえばそれまでだが、その背景には自分さえ良ければといった利己主義と儲けたいという貪欲さが必ずと言ってよいほど見え隠れしていて、只々呆れるばかりである。こんなことでは隣国の「著作権を無視したコピー問題」などを批判することはできないだろう。事の本質は両者それ程違っていないように思える、節操のなさである。
だが、この問題、問題の本筋以上にいただけなかったのが、その後の謝罪会見である。謝罪会見であったかどうかも疑わしいほどに挑戦的だった出崎社長の一貫した「誤表記」を主張する表情態度は、名立たる組織の最高責任者とは到底思えぬ信じ難いものだった。その無責任さは部外者の我々でさえ腹立たしく感じたのだから、永年使えてきた当該ホテルの従業員の方たちにとっては、到底許し難く信じ難い光景であったに違いない。彼らの心境を考えると、気の毒でならない。
だが、その矢先、この問題に勝るとも劣らぬ情けない事件が新聞の一面を飾っているのに目を疑った。
2013年10月30日の朝日新聞朝刊のトップ記事「日展書道、入選を事前配分」である。事件の詳細については当該新聞等の記事を参照されたいが、要は日展の5つある科の「書」科内で、有力会派での入選数を事前に割り振る不正が行われていたという内容である。簡単に言えば、応募の段階で入選者は既に決まっていたというストーリーである。
事の発端は、2009年度の審査の際、ある日展顧問による「天の声」により、有力8会派に入選者が配分されたという不正審査の実態が内部告発的に明らかになったことだ。
だが、この記事を読んで不正の問題以上に腹立たしかったのは、この時の審査で「8会派に属していない人はひとりも入選しなかった」という悲しい事実である。曲がりなりにも真に才能ある実力者が入選できる道筋が多少なりとも残されていたならばまだしも、最初から道が閉ざされているところに、わざわざ一万円まで払い応募した応募者の情熱は何だったのだろう。主催者側はそうした応募者の気持ちをどう思っているのか。これはどうみても詐欺罪以外の何ものでもないし、それだけで済まされる問題でもない。どこまで遡るかは私には分からないが、最低でも一定の応募者に対し返金すべきだろう。
音楽や絵画など芸術活動に少なからず関心のある私としては、いつの日か「洋画」科に応募してみようなどと淡い希望をもっていたが、今回の件でそうした関心も意欲も一気に薄れてしまった感がある。こんな私でさえこの記事に対しては、やり場のない怒りを感じているが、一度でも応募経験のある方にとっては怒りの程度は私の比ではない筈だ。
入選者が端から決まっているという歪んだ審査を、長年に亘り、さも厳正な審査のごとく振る舞ってきた日展という組織。
多くの芸術家のタマゴが輝かしい明日を夢見て希望を託す筈の「日展」が、そのような薄汚れた組織実態だったということが分かった時の絶望感。それは日展そのものが味わうのではなく、何も知らずに応募した老若男女問わず純粋な応募者すべてが味わうのだ。そんな残酷なことがあって良いのだろうか。そう考えると日展の責任は極めて重い。
この問題、突き詰めていくと「審査とは一体何なのか?」という極めて基本的だが非常に厄介な疑問に辿り着くことになる。
そもそも、芸術の世界なんて微妙なもので、どの分野でもテクニックがある程度(このある程度というのもまた微妙な言葉なのだが)まで到達していれば、それ以上はそれぞれがどう感じるかということで、優劣など付けられない世界だと常々思っている。優劣付けたがるのは、作品を商業的に考えるからで芸術的には何の意味もないことだ。
例が適切かどうか分からないが、ヴァイオリンの歴史的名器と言われているストラディバリウスと量産品のチョッとした高級ヴァイオリンとの音色の違いを完全に聞き分けることが、その筋の専門家でさえできないという。このことはいくつかのテレビ番組でこれまでに実験的に証明されていることだ。これは何を意味しているかと言えば、「優劣」は「どれだけ大きな音が出せるか」や「どれだけ擦れずに小さな音が出せるか」といった一定の判断基準に基づけば可能だろうが、そもそもそうした判断基準を用いること自体、芸術の世界では邪道なのだから、「優劣」もまた意味のないことという他はない。
歴史的価値、地域的価値、技術的価値など芸術作品にはそれぞれ価値判断があるが、私たちは
ストラディバリウスの例に見るように、良い音色、悪い音色ではなく、私たち自身が「好き」か「嫌い」かという判断基準で、これまで対象を判断していたのかもしれない。それを優劣と思い込んでいただけなのかもしれない。
このように、芸術に於ける審査とはそれでなくても微妙な世界なので、「日展」は今回のような不正という「故意」を審査の中に絶対入れてはならなかったのである。このような状況では過去の入選作品や他部門の入選作品に疑いの目がいくのも人情である。問題は大きな範囲に波及しそうというか、寧ろ波及させなければいけない問題かもしれない。
長年、金にまつわる悪い慣習だらけの書道界と階級制度が色濃く残る日展は、これを機に大いに反省し、信頼回復に向け一大改革が必要である。
邦画の世界では「10倍返しだ」、「100倍返しだ」と、何やら物騒な風潮がメディアを騒がせ、一方「土下座」が当り前のような謝罪等が受けているようだが、こうした謝罪の際、私たちが本来求めているのは、そうした極端な空々しいパフォーマンスではなく、極々自然なリアクションで事足りるのである。今回の件もそうだが、肝心なことは二度と過ちを繰り返さないという誠意だと思う。
あまりに中身がない反面、表面だけを飾りたてる傾向がいたる所、場面で目立つ昨今、本物を見極める確かな目(判断力)を持ちたいものである。それはストラディバリウスの音色を聴き分けるような聴力を養えということではなく、自分自身が感じた印象を大切にし、周りに惑わされるなということだと思う。
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