投稿

4月, 2013の投稿を表示しています

ジャケ買い天国: シリーズ第2弾 ビル・エバンス&ジム・ホール「Undercurrent」 

イメージ
ビル・エバンス&ジム・ホール 「アンダーカレント」  Bill Evans & Jim Hall  「Undercurrent」 おもて面に何もロゴがないのは 最近のアルバムではよく見かけるが、 この当時としては非常に意欲的な試み。   1  My Funny Valentine    5:23 2  I Hear A Rhapsody    4:38 3  Dream Gypsy    4:33 4  Romain    5:21 5  Skating In Central Park    5:20 6  Darn That Dream   5:08 ビル・エバンス(P) ジム・ホール(G) 1962年4月24日、5月14日録音 iTunes Storeで試聴できます。 前回のマドンナ「ライク・ア・ヴァージン」に引き続き、今回もモノクロ的アルバムである。 モノクロ写真の時代にカラー写真が出現し、そのカラー写真が当り前になると逆にモノクロ写真に新鮮さを感じるというこうした複雑な感覚は、果たして人間だけに備わったものなのだろうか。ある意味、何とも移り気で我儘で欲深だと思うのだが、結局それでこそ人間なのかも知れない。 と言うか、そもそも動物の世界はモノクロと聞いたことがあるのだが... 冗談はさて置き、強烈なインパクトを期待するならカラーよりモノクロと言うのが今の定番。 このアルバムが発売された当時は、モノクロ感覚は至って斬新でユニークな印象だったはずで、前述した人間の色に対する複雑な感覚が認識され始めた頃だったのだろう。 モノクロジャケットに加え、ジャケットのおもて面にタイトルやアーチスト名を一切入れない試みも、当時としては画期的なことで体制に背く異端的立場を強く主張しているかのようだ。 思えばこのアルバム、何から何まで当時の常識を覆す革新的要素が詰まったアルバムだと思う。キャッチコピーも説明もないが、それ故に見る者に無言の訴えを...

本の紹介:「フェルメールの音 音楽の彼方にあるものに」 梅津 時比古 著 東京書籍

イメージ
第1刷発行が2002年1月17日だから、早いもので発売からもう10年以上が経ってしまった。 発売当初からこの本の存在は知っていたが、フェルメールブームの便乗商品ぐらいとしか思っていなかったため、購入することはなかった。内容的にも表題作の「フェルメールの音」という2頁の短い一遍のコラム以外はフェルメールには直接触れていなかったからだ。 厚めのパラフィン紙でカバーされているため、 フェルメールの絵がおぼろげに見える。 それがどうしてこの場で紹介する運びになったかというと、日頃通っている神奈川県立図書館で先日偶然にもこの書籍を見掛けたからである。 装丁は比較的きれいだったため、この間不人気であまり貸出がされていないのかと安易な判断をしていたところ、ハードカバーを捲り目次のあたりにくると綴じ目のあたりが脆くなっているのがわかった。図書館の本の扱い、マナーが良くないといった昨今の問題は今回はさて置き、多くの人に愛読された痕跡を発見し、嬉しやら悲しいやら情けないやらとあの時は複雑な心境であった。 本書は毎日新聞の夕刊に約4年間にわたり連載されたコラム「クラシックふぁんたじい」をまとめたものとのこと。一遍一遍が独立したコラムになっているため、興味のあるタイトルを拾い読みしても良いし、最初から連続して読んでいっても構わない。 この一冊では、著者のクラシック音楽の博識ぶりは勿論のことだが、他の芸術にはない、目に見えず尚且つ瞬間的に消えてしまう「音」というものを扱う音楽の手強さ、困難さ、そして音の神秘性と魅力をこうした一遍一遍から読み取ることができる。そして何よりも感心したのは著者が絶えず自然と対峙しながら音を意識していることで、その感受性と想像力の豊かさは尋常ではない。著者の四季折々に出会う音の背景には常に自然があり、自然にはいつも音が存在する。その音を愛おしむ気持ちが「音楽の彼方にあるものに」という副題に込められているように感じた。本来は副題が主タイトルだったのかも知れない。 実は、連載コラムを一冊の本にまとめるに当たり、著者や出版社には冒頭に触れたようなコマーシャル的戦略が当初はあったのかも知れないが、読み終えてみるとそんな手段を用いなくても充分通用する中身の濃い優れた作品であることがわかる。何事に於いても、中味のない作品をオーバーに宣伝されるこ...

Windows8「スタートボタン」をなくしたのは一時の気まぐれですか?

イメージ
2012年10月26日のWindows8発売から暫くして、世のトレンドに遅れまい(?)と愛機の一台をアップグレードしてみた。これまでのWindowsのアップグレードの中では最も革新的との各メディアの前評判で期待していたのだが、インストール後の使い勝手は最悪だった。その最たるものが「スタートボタン」の廃止である。インターネットの閲覧程度ならほとんど気にならないが、いろいろな連続操作をしていくと、その流れの中で、「スタートボタン」がないことの不便さを痛感。「革新」とは少なくとも「良い方向に変化すること」という私の素朴な認識はアッという間に砕け散った。 それ以降はパソコン操作はストレス以外の何物でもなく、その当時はwindows7に戻すことを真剣に考えたくらいだった。(実は元に戻すのはかなり厄介) Windows8のスタート画面 「タイル」と呼ばれるパネルで構成されている。 そんな折、登録中のメルマガ日経「PC Online」の4月23日付け記事の中に「マイクロソフトがスタートボタン復活も」という記事を発見した。それによるとマイクロソフトのPeter Klein最高財務責任者(CFO)が決算報告の中で独自の小型タブレットの開発・発売に向け動いていることと、Windows8のスタートボタン復活を複数の海外メディアにほのめかしたとある。 2012年10月26日の発売以来、Windows8の売上げ実績はハッキリ言って芳しくないことはメディア等で伝えられている。その中で当該のマイクロソフトは不振の原因をタッチパネルの普及の遅れやスマホ、タブレットに押されていることなどと分析しているが、ハッキリいって的外れで現状を直視していない(あるいは直視できない)不充分な分析だと思う。 ユーザーの一人として考えれば、現在の業績不振は当然の結果だと思う。2011年5月にこのブログにアップした「マイクロソフトさん、もうですか?」で指摘した通り、先代のOS「Windows7」から僅か3年程度でのバージョンアップは時期尚早なのである。繰り返すが、個人はもとより企業や学校にとっては、数百台、数千台の規模でPCを入れ替えることとなる。コスト面でも手間暇の面でも負担が大きすぎるのだ。更に現状が安定しているシステムをできるだけいじくりたくないというのもシステム担当者側の本音である...

有名俳優、タレントがナレーションをすることについて

イメージ
石丸謙二郎氏のナレーションでお馴染みの「世界の車窓から」は私の数少ないお気に入り番組のひとつです。コマーシャル含め5分ほどの短い番組ですが世界の美しい景色と珍しい機関車や列車が紹介され、心休まるひとときを過ごさせていただきました。番組が終了していないのに「・・・いただきました。」と過去形なのは実は以前は毎回欠かさず見ていたのですが、番組放送の時間帯が変わったことや自身の生活パターンの変化などで、残念ながら最近はご無沙汰気味だからです(すいません)。   「世界の車窓から」VHS 表面 1992年 非売品 調べてみるとこの番組、1987年に放送がスタートし、およそ四半世紀の歴史がある長寿番組とのこと。これも石丸氏のナレーションとコンテンツの素晴らしさに由るところが大きいと納得している次第です。頼りない私の記憶では、もっと以前から放送していたのではと錯覚するほどです。番組では、世界各地を訪れ、そこで活躍している様々な鉄道車輛を楽しむことができ、旅行ファンも鉄道ファンも楽しめる番組構成です。 でも、放送開始当初から番組が一貫して伝えようとしているのは、自然の美しさであり、そこに暮らす人々の優しさであり、人生の素晴らしさではないかと私は思っています。 なかでも石丸氏のナレーションには心惹かれるところがあり、いつも注目しています。 その声は決して美声とは言えませんが、嫌みのない心地よいナレーションです。 淡々とした飾り気のない彼の語り口は、ともするとクールに感じられるかも知れませんが、反面、ナレーターはかくあるべきと主張しているかのようです。 こうした番組にはいたずらにウケを狙ったり「オチャラケ」は必要ないのです。 ところで、最近は有名俳優やタレントがアニメの声優をやったり、ドキュメンタリー番組のナレーションをやったりと、声優やナレーターの職域を侵害しているのが目立ちます。と言うよりは流行にすらなっているようです。番組制作側の意図は充分察しがつきますが、果たしてその効果はというと疑わしいものです。こうした傾向を私はそんな風に冷やかに見ています。 最近ご無沙汰気味の石丸謙二郎氏の「世界の車窓から」を思い出したのは、そんな昨今の由々しき状況を残念に思うからです。 そして、いずれは本来の秩序ある体制に戻るものと信じていますが、それには私...

<新企画>ジャケ買い天国: シリーズ第一弾はマドンナ「ライク・ア・ヴァージン」

イメージ
はじめに その昔、まだ音楽ソースがCDではなくレコードという媒体で売られていたころ。 僕らはそのコンテンツそのものよりも、むしろ入れ物であるレコードジャケットにある種の魅力を感じ注目していたことがあった。現在のようにあらゆる手段で試聴が可能な時代ではなかったので、新譜に対する期待は大きいものの、実際の音、いわゆる内容がどんなものかは購入するまでわからないのが当り前の時代。ラジオなどで事前に聞ければラッキーな方で、それでさえアルバムの中の代表曲一曲程度の話である。 そんな不便な時代のアルバム購入術のひとつが「ジャケ買い」だった。多少のギャンブル性はあったものの、「ジャケットが良ければアルバム内容もそれなりだろう」というのがその強引な論法だが、意外と掘り出し物を手にすることも多かったのだ。(都合の悪いことは忘れているのかも) 仲間内では、だれが呼んだのか「ジャケ買い」という用語さえいつの間にか、通用するようになっていた。 目を見張るような美女のジャケット写真に心ときめいたり、シブいモノクロ写真のジャズアルバムに心惹かれ、思わずその場にいた友人からお金を借りて、いわゆる衝動買いをしたことが幾度となくあった。あのころはそれでなくても、30センチ四方の紙ジャケットを片手に繁華街を歩くのはそれだけでステータスだったのだから。ちょっとハイソな趣味のレコードなどは透明なビニールのまま、云わば剥き出しで持って歩いているといったキザなヤツもいた。ただ、心配だったのはレコードを持ったまま満員電車に乗ることだった。実際、そうした状況でレコードが破損したということは僕に限ってはなかったが、そう、あれは青春の大いなる悩みのひとつだったかもしれない。 80年代前半、CDが店頭に出始めたころ、レコードとCDは、古いものと新しいものの代表として、その「良し悪しの論戦」が音楽雑誌を中心に活発に展開されていた。世に云う「アナログ、デジタル論争」である。その時、新参者のCDは完全に不利な状況だった。 CDの最大のセールスポイントである音がクリアというメリットも、アナログ派によって「味気のない音、温もりがない音」として一蹴されたのだ。思えば、あの当時CDのメリットはたくさんあったように思うのだが。たとえば、レコードと違って針が必要ないためランニングコストが掛からないこと。レコ...

音楽聴きくらべ_007「FRAGILE フラジャイル」

イメージ
課題曲 #007  FRAGILE フラジャイル STING スティング 洋画や海外ドラマを観ていると「Fragile」という単語、見かけませんか? 例えばこんなシーン。ネットショップデリバリーが主人公宅にダンボール箱を届ける。そこに貼られたステッカーに書かれているのが「Fragile」という見慣れない単語である。そう日本でいうなら「割れ物注意!」といったところか。 英和辞書で調べてみると「脆い」「儚い」なんて訳が載っているけど、私がこの単語を最初に知ったのは、スティングの「Fragile」というタイトル曲でだったと思う。 今回採り上げるのはそんな奇妙なタイトルが付いたスティングの名曲「Fragile」である。 ポリスが自然消滅後、ソロ活動を開始したスティングが3年ほどしてリリースしたアルバム「...NOTHING LIKE THE SUN」に収録された一曲。このアルバムはソロとしてはの3枚目のアルバムで、一曲を除きすべて自身のオリジナル楽曲で構成されている。気力、体力、モチベーションとすべての点で最も充実した時期のアルバムだと思う。そのためアルバムとしての評価は依然として高い。 このフラジャイルという曲、独創的で魅力的なメロディー展開も然ることながら、歌詞の内容は相変わらず難解で、彼の云わんとする世界は私たちの想像の域を遥かに超えたところにあるようだ。一見それは人間の脆さ、人生の儚さを謳っているように思えるが、彼が用いる比喩やフレーズはあまりに主観的で飛躍に富んでいるため、私たちはその全体像を掴むことができなくなる。彼の豊かな感性、表現力ゆえに、その向こう側にもっと別の何かが暗示されているのではと、どうしても想像してしまうのだ。どうしてこんな詞が書けるのか只々脱帽である。 しかし、この楽曲の魅力は何と言ってもメロディーの美しさだろう。人間の脆さ、儚さを謳ったこの曲の歌詞は哀愁を帯びた旋律に溶け込みながら、どこか頼りなく彷徨いながら、必死に行き場を探しているようだ。 スティング自身のナンバーを聴いていると、そんな切ない情景が目に浮かんでくる。 まったくの個人的感想だが、このフラジャイルを聴くと、ジャン・レノ主演の映画「レオン」のエンディングに流れたあのテーマとオーバーラップするのは私だけであろうか。あのスティングが歌...

本の紹介:ドラッカーとオーケストラの組織論  山岸淳子著 PHP新書

イメージ
PHP新書 820円+税 一時の熱狂ぶりは去ったようだが、その後あの「ドラッカー」ブームはどうなったのだろう。自身もテレビやネットでその盛り上がりは知っていたが、時代に取り残されない程度にと、当時密かに購入したのが上田惇生著「ドラッカー入門」だった。これはドラッカー自身の著書ではなく、わたしのようなミーハー向けのドラッカーの決定版入門書である。手っ取り早くドラッカー云々を語れればいいと、そんな不純な動機から手にしたのだが、経営論だマネージメントだのとまったく私にはピンとこない。私の領域ではないなとすぐ気付いた。その時はそうは思いつつも最後まで読破したが、只々活字を追っているだけのようで頭の中には何も残らなかったというのが正直なところ。 さすがドラッカー、入門書とは言え手強かった。 そんなドラッカーとの出会いから数年が経った今、どうしてまたドラッカーに関係する書籍を懲りもせず買ったのか。答えは単純である。「ドラッカーとオーケストラの組織論」というタイトルに惹かれたからである。ドラッカーとオーケストラ、言い換えれば「ドラッカーと音楽」という意外な組み合わせと、著者である山岸淳子さんの略歴を読み興味を持ったからだ。 著者は東京芸術大学音楽学部を卒業後、日本フィルハーモニー交響楽団に入団し、広報宣伝部長、企画制作部長等を経て、現在は特命担当とのこと。著者がオーケストラ内の実際の演奏者ではなく、楽団を如何に運営、発展させて行くかという立場であることで、本のタイトルがようやく理解できた次第である。 この本を読むまで最も意外だったドラッカーと音楽との関係は、読み進むにつれむしろ濃厚であったことに驚かされる。実際、彼は音楽を愛していたし、彼の経営論に関する著作の中で、オーケストラを例えにして組織論を述べているケースが多々あるという。 ダイヤモンド社 1600円+税 彼が音楽の都ウィーン生まれであったこと。また、これはあまり知られていないことだが、彼のおばあさんはあのクララ・シューマンの教え子で、幼少の頃ドラッカーはそのおばあさんからピアノを習っていたという。更に70歳を過ぎた頃、彼は小説を書いているが、そのタイトルが「最後の四重奏」ということで、そのことからも彼が生涯にわたって強く音楽を意識していたことがわかる。この小説は音楽を扱った内容...