クリスマス:幼い記憶と思い込み


 

以前、自身のブログのなかで、幼い頃の記憶には人一倍自信があると書いたことがあります。
それは、記憶の質と量(ハッキリしているか、どれくらい覚えているか)や、どこまで遡れるかといった、いくつかの視点においてです。

そのことを知人に話すと、「お前の記憶には、本来の記憶と親から聞かされてきた昔話が混在しているからだ」と指摘されましたが、決してそうではない自信が私にはあります。いまも記憶に残るいくつもの事象や光景は、幼い脳裏に焼きついていて、自分自身が感じ体験した光景であると、自信を持って言えます。時間の経過とともに、記憶本体が経年劣化したり、余計なものが多少盛られてくることはあるかも知れませんが。

今回は、この時期になるといつも思い出される、淡く切ない自身のクリスマスの記憶を題材にして、「クリスマス:幼い記憶と思い込み」というテーマでお話ししたいと思います。


昭和30年代のクリスマスシーズンといえば、横浜の街は現在の整然とした「みなとみらい地区」のLEDイルミネーションとは比べものにならないほど、色彩豊かで活気に満ちあふれていました。伊勢佐木町や元町商店街はカラフルな電飾で飾られ、街中にはジングルベルやホワイト・クリスマスのクリスマスメロディが流れて、買い物客で賑わっていたのです。
ちなみに、この頃の横浜駅周辺はまだまだ発展途上で、繁華街と言えば伊勢佐木町商店街だったのです。

1960〜70年代の元町商店街のクリスマス風景(イメージ)



街を彩る商店街の飾り付けには、「不景気だからこそ豪華に」といった、商店街の意気込みがあったと、いま振り返ると感じます。クリスマス・イブに伊勢佐木町へ買い物に出掛け、不二家でクリスマスケーキを買って帰るというのが、一般家庭のクリスマスの過ごし方でした。その際、お父さんが子供たちに内緒で、別の買い物をするというのが、クリスマスならではの特徴でしたネ。子供にとっては、一年の中で最もワクワクで待ち遠しいシーズンです。
翌朝、枕元に置かれた「サンタの赤いブーツ」を手にしたときの喜びは、多くの子どもたちに共通する懐かしい思い出で、忘れられない記憶の一つでしょう。


しかし、私の場合は、そうしたクリスマスの思い出とは別に、決して消し去ることができない記憶があります。それは繁華街の賑わいとは真逆の「静寂のクリスマス」の光景だったのです。しかしながら、その記憶は最も頼りない記憶でもありました。



時代は昭和30年代に遡ります。私が住む横浜、特に海に面した中区周辺は、その頃は米軍が依然として駐留していて、戦争の傷跡が完全に抜け切らない、不安定な状況だったと思います。それでも、他の地域に比べたら、物資も食料もマシだったのかも知れませんが。
そんな本牧、山手地区で私は生まれ育ちました。ですから、身近に米兵やその家族の家などがあって、日常茶飯事に異国の雰囲気に触れていたのです。
今回の話は大袈裟に言えば、そんな環境下での幼い子供の記憶の検証と言えるかも知れません。

それは、自分が住む貧しい共同住宅から少し離れた場所での出来事でした。幼い私にとって、その場所までは、かなり遠出をしないと辿り着けないように思えたのですが、実際は僅かな距離だったのです。そんな事ってよくありますよネ。雑草が生えた小径を抜け、大樹が生い茂るトンネルを通り抜けないと到着できない、幼児には一大冒険の旅に思えたのです。そして、その冒険の旅で辿りついた場所が、私の秘密の場所なのです。

その場所には、絵本から飛び出てきたような、豪華絢爛な西洋建築の住宅が建っていました。そしてその庭には、私がそれまで目にしたことがないような、堂々たる巨木のクリスマスツリーが輝いていたのです。

自分の家は、古臭い地味な木造の共同住宅。それは後の時代に「ウサギ小屋」と揶揄されるような、粗末な建物でした。片や私が見た西洋建築の邸宅はあまりにも豪華で、光り輝いていました。恐らく、アメリカの外交官(領事官)級の人が、住んで(駐在して)いたのだと思います。普通の外国人では住めないほどに、桁外れに大きい建物でしたから。


駐留軍の外人ハウス。横浜本牧地区にはこんな光景がどこまでも続いていました。
現在のマイカル本牧辺りがその中心でした。
金網を隔てた天と地の違いです。(イメージ)



それでも、幼かった私は、アメリカという巨大な国に対して「妬み」や敵視することはなかったのです。当時のアメリカは大国として豊かで寛大であり、米兵たちも幼い子どもたちに優しく接してくれたからです。当時の大人たち(私の父親の世代)にとっては、「敵国の行事などバカバカしい」とクリスマスへの反発の思いもあったでしょうが、子どもにとっては楽しい行事でしかなかったのです。ですから、そうした複雑な感情が背後にあったことは、後々に知ることになります。
しかし、比較にならない圧倒的な格差からくる、屈辱感にも似た複雑な感情が、その時にはもう幼い心の中に、密かに芽生えていたのかもしれせん。

ところで、幼い私が見つけた、静寂に包まれた景観が醸し出す空気感は、後に聴いたバッハの『ロ短調ミサ』の冒頭「キリエ」の世界観だと気付かされたのでした。私はこの素晴らしい場所を両親や誰にも教えず、「自分だけの秘密の場所」として、一人で密かに何度も足を運んだのです。

しかしながら、これ程までに鮮やかに思い出せる遠い昔の事柄が、実は私の中でズッと「不確かな記憶」として悶々としていたのです。「あの時見た光景は実際のものだったのか?」と。それは苦しみとまではいきませんが、いつまでも看過できない宿題として残っていたのです。
私の記憶の中にあった豪華な洋館と巨大なツリーの光景は、果たして現実の物だったのか、あるいは母親などから聞かされた物語の世界の一シーンだったのか。
それを母親に訊くにも、
既に他界しているため、今では確かめることもできません。
こうした頼りない「幼い記憶」と、自分に都合良く記憶する「思い込み」が、私の中で常に相対していた気がします。「一方は幼い記憶、故に真実味が乏しい。片やあの記憶は思い込みで、私の中で美化された光景だったのか」と言った具合に。

(画像1)私の記憶の中のアメリカン・ハウス(イメージ)
当時の日本の住宅とは比較にならないほどの大きな建物



一時期、そんな真相の追求に、やたらと拘ったときがありましたが、半世紀以上の時が流れた今、あの記憶が現実であったのか、幻であったのかを追求する必要はないと、考えるようになりました。
「幼い記憶」が真実かどうかを立証するには、少なくともその時点で、自身の過去を知る人(両親など)たちが、存在していなければなりません。写真という手もありますが、立証に適う写真が、そのとき都合良くあるとは限りません。スマホなどない時代ですから、写真などある筈がありません。そうなると、どうにもならない訳です。
世の中には、白黒をつけず「グレーゾーン」のままにしておくことで、かえって救われ、美しく保たれる記憶や思い出もあるのだろうと思うようになったのです。

さて、これまで私は、友人との会話や自身が書く文章の中で、「心象風景」という語句を安易に使っていたようです。今回のことを考えるに当たって、私は多少の誤用をしてきたことに気が付きました。つまり、「心象風景」と「原風景」の二つの語彙を、同類語のように扱っていたことになるのです。
「心象風景」は実際には存在しないファンタジーや自身の心理状態を投影した、抽象化された景色であるのに対し、私はそれを「原風景」と同類に考えていたようです。
「原風景」は、人の心の奥にある、記憶や思い出の原点となった懐かしい景色ですから、過去のどこかの時点で現実に存在した景色である訳です。

山手カトリック教会イメージ
山手地区にある山手カトリック教会(イメージ)


あの寒い冬の夕方、高台から柵越しに見つめた眩い光とツリーの輝き(画像1)は、敗戦の陰から復興へと歩み出した横浜の街で、幼い私の脳裏に焼き付いた永遠の「原風景」であり、「心象風景」でもあったのだと、ここへ来て漸く心の整理ができたと感じています。

思えば、私がこれまでお話してきた「原風景」は、戦後の我が国の貧しさの正反対にあるライトアップされたアメリカの華やかさでした。これは疑いもない事実でした。
当時の日本とアメリカの間に存在した、絶対的な生活水準の格差(貧しさ)を、幼い私が無意識に記憶に刻んでいたとしたら、ある意味それは悲しい出来事です。
このように、戦争がもたらす悲惨さは、目に見える破壊された建物や瓦礫の山だけでなく、人間の心の奥底まで入り込み、トラウマ以上のものとして居座り続けるのです。そして、あれから70年以上経過した今も尚、私たちはその陰影を重荷として背負い続けているです。決してカウンターパート(counterpart)ではないのです。

最後までお読み頂きありがとうございました。
from JDA

コメント

このブログの人気の投稿

映画「パリのめぐり逢い」がDVD化されないのは...

懐かしのハートカクテル わたせせいぞう

やっぱり、カラヤンはいい!