伝説の女優 原節子さんを偲んで


1月26日の新聞各紙及びマスコミは、一斉に伝説の女優「原節子」さんの死を報道した。
不謹慎極まりないわたしはその記事を見た瞬間、「エッ、この女優さんは未だ健在だったんだ」と呟いてしまった。正直、死去という衝撃よりも、この平成の時代にあって未だ健在だったという意外性の方が一瞬のこととはいえ強かったからである。

自分自身を弁明する訳ではないが、原節子さんと言えば戦前戦後を大女優として一世を風靡した方で、わたしたちの世代というよりも、わたしたちの親の代のアイドルだったのだから。
原節子という名は幼少のころ、両親の会話のなかによく出てきた名前ではあった。
映像を見たわけでも、写真を見たわけでもなかったので、当時はそんな漠然とした記憶の中での存在でしかなかった。
ただ、そんな会話のなかに必ず出てきたのが「美人」、「きれい」という言葉で、子供ながらに関心があったのだろう。

例えが適切かどうかわからないが、あの歴史上の人物クレオパトラが絶世の美女として今なお語り継がれ、そのことによって「どんな風貌をしていたのか」とか、本当のクレオパトラを一度は見てみたいという期待と憧れを誰もが抱くように、それと同じような心理が子供ながらに働いていたのだと思う。そんな訳で原節子という響きはわたしの頭の片隅に記録され愛着をもったのだ。

やがてもの心がつき、テレビ番組の中で映画「東京物語」を観たことで、幼いころのおぼろげな記憶の原節子の偶像と画面に映し出された実際の女優「原節子」とがはじめて具体的に結びついた。
そんなとき、現実は、とかく期待はずれの結果を出すものだが、このときわたしのなかでは期待通りとも期待はずれとも判断できない、別次元のなんとも不思議な印象を持ったことを覚えている。

それは今思えばこんな事だったのかも知れない。
例えば、原節子さんは「日本人離れした風貌」と形容されることが多いが、わたしは寧ろ東洋的で日本人の典型のような顔立ちの女性だと思っていた。そう、その理由はあのときの印象をいつまでも引きずっていたからだ。あのときわたしを別次元に追いやり呆然とさせたのは、テレビの画面に映る原節子さんの顔があたかも飛鳥時代のころに創られた仏さまの顔そのものに思えたからである。
それはそれは端整な顔立ちの仏さまだった。
現実の中で仏さまに出逢ってしまったという一種の焦り、動揺にも似た心境だったに違いないと。



ストーリー的には何の変哲もない内容でありながら、ズルズルとわたしたちを引き込む「東京物語」の映画としての魅力もさることながら、それは同時に女優「原節子」の不思議な魅力に引き込まれていったと言っても過言ではない。一般のファンはもとより少年とも青年とも区別の付かない当時のわたしのような世代をも惹きつける彼女は、時代を超越したまさに普遍的な魅力を持ち合わせていたと言える。


では、そんな彼女の偉大さは果たしてどこにあったのだろう。
神秘的な魅力を漂わせていた全盛期の女優時代か。それよりも寧ろ42歳の若さで突然引退し、その後復帰はもとより公の場にも決して出なかったという彼女の意志の強さにこそわたしは称えるべき偉大さがあったと思う。

頂点を極めたものは、その場に何時までも居座りたいと願うし、たとえその座を陥落したとしてもまた戻りたいと欲するのが常である。彼女の場合、そうすることは可能だったにも拘らず、決してそうしなかったところにわたしは好感を持つし強く惹かれる。

熱狂的なファンでもなく、彼女の作品も数本しか観たことがないわたしにとっても、何故か気になる別格の女優さんだった原節子という女性。
彼女の突然の引退についてはさまざまな憶測が囁かれ、その最たるものが小津安二郎監督の死であることは誰もが承知だが、その真意は未だベールに包まれたままだ。今回の不幸でそれは永遠に語り明かされることのない謎となってしまった。でも、そのことは決して残念なことではなく、そうあるべきことなのだと思いたい。伝説の女優は最期まで伝説でなければいけないと。

報道によれば、彼女が亡くなったのが今年の9月5日というから、公になるまでにおよそ2ヶ月半の間があったことになる。その間どういうことがあったのかはわたしたちは皆目分からないが、こうした事実もまた彼女らしいと言える。偉大な女優がまたひとつ伝説を創るのに費やした時間だったのかも知れない。


失礼な喩えと拙稿に対しお詫びを申し上げるとともに、
原節子さんのご冥福をお祈りいたします



コメント

< これまでによく読まれている記事 >